History大学の歴史

1993-2002

組織の自立、
進展する施設整備と国際化

創立25周年を迎えた1993年、旧学園理事会と法人分離し、京都精華大学は経営的にも完全に自立した大学となる。これを機に大学の名称を変更しようという動きは、学生、卒業生たちの強い反対の声によって頓挫したが、施設は充実し、知名度や評価も高まった。90年代、18歳人口はピークを迎え、自由で個性的な学生たちでキャンパスに活気があふれた。しかし、一方で、将来の受験生減少を見据えた改革、そして、社会の変化に対応するガバナンス強化の必要性が語られるようになり、大学の姿勢と空気はそれまでの自由一辺倒なものから、少しずつ変化を見せ始める。

1993年度(平成5年度)

  • 1993年 4月

    • ・京都精華大学大学院人文学研究科(人文学専攻修士課程)開設。初年度の入学者は10名。これまでの大学院とは異なり、専門の壁を取りはらう場としての大学院を目指し、われわれの世界が抱える現実的かつ根本的な問題に向かい合える市民を育てることを目的とした。
    • ・1991年の大学設置基準の大綱化に伴い、開学以来の一般教育課程を廃止し、新たに教養科目を設置。現代のアクチュアルな問題を解析し、解決のための基本的な考え方を養うことを目的として、総合講座「女性学」、「女性と芸術」、「エイズ」、「第三世界の文化理解」が開設された。
    • ・セメスター制を導入。学年歴を2学期制に変更し、前期は4月~7月、後期は9月~2月となった。
    • ・人文学部に派遣学生制度を導入。これは学生の学習機会を広げることを目的に、本学に在籍したまま派遣先の大学で学び、取得した単位を30単位まで本学の卒業単位に算入するという制度。提携大学には旭川大学、札幌大学、沖縄大学の3校が選ばれた。
  • 5月

    • ・学校法人京都精華学園理事会が京都精華大学の法人分離を決定。新たに「学校法人木野学園」を設立し、翌年から京都精華大学は学校法人京都精華学園より学校法人木野学園に移管されることとなった。
    • ・創立25周年記念行事が始まる。5月には、その連続イベントの第1回目として、ベーシック・イングリッシュの提唱者だったI・A・リチャーズ生誕百年記念シンポジウムが開かれた。
    • ・ミシガン大学美術学部と学術交流一般協定を締結。
  • 6月

    • ・学校法人木野学園の設立許可申請書を文部省に提出。
  • 7月

    • ・創立25周年記念行事として「SEIKA AFRICA DAY」が開催される。メインはフクウェ・ザヴォセのコンサート。ほかにも、当日は人文学部教員のアフリカ音楽に関する講演や、アフリカ料理の提供などもあり、約1000名の観客が集まり、在日アフリカ人の姿も数多く見られた。イベント運営には100名近い学生ボランティアスタッフが参加。
  • 9月

    • ・同窓会「木野会」東京支部設立。
  • 10月

    • ・創立25周年記念行事として、「ロッキン・エイジア」と銘打った台湾、タイ、スリランカなどアジアの音楽家によるロック・フェスティバルを開催。
  • 12月

    • ・学校法人木野学園の設置が認可される。同志社大学元総務部長の駒井四郎が初代理事長に就任。
    • ・創立25周年記念行事として、社会学の世界的権威であるイマニュエル・ウォーラーステイン・ニューヨーク市立大学教授が国立京都国際会館で「リベラリズムの苦悶 進歩への希望を何につなぐか」と題して講演。また、哲学者の鶴見俊輔氏が本講演の前に登壇して「序論」を語った。
  • 1994年 3月

    • ・法人分離に伴って、笠原芳光が学校法人京都精華学園理事長を退任。

1994年度(平成6年度)

  • 1994年 4月

    • ・学校法人木野学園が京都精華大学の設置者となる。
    • ・学長補佐制度が設けられる。教学担当学長補佐に末石冨太郎(人文学部教員)、学生担当学長補佐に松谷昌順(美術学部教員)が就任。
    • 施設設備総合計画の第2期第2次工事が始まる。図書館(現在の情報館)、講義演習棟(現在の黎明館)の建設が中心で、1997年竣工予定。
  • 11月

    • ・学連続対論「《知》の工房」がスタートする。大学に社会的な貢献が求められていることから、社会人向けの公開講座を京都市中心部で開催することになった。本学人文学部教員がホストとなり、学外から招いたゲストと統一されたテーマで連続対論を行う。94年度は「宗教」をテーマとして開催。初回は梅原猛氏(国際日本文化研究センター所長)と笠原芳光(人文学部教員)の対論。
  • 12月

    • ・留学生展覧会が京都市国際交流会館で開催される。
  • 1995年 1月

    • ・阪神淡路大震災の救援対策本部を設置。被災地域の教職員、学生、入学予定者の被害状況の把握および災害見舞金の支給と現地見舞いを実施。
    • ・芝浦工業大学と学生交換制度に基づき交換協定を結ぶ。東と西、工業技術系列と美術系列の建築をお互いがクロスオーバーして学び合えるようにするためのプロジェクト。
  • 2月

    • 大学名称変更問題について柴谷篤弘学長が総括し、「京都精華大学」の名称継続という結論を示した。名称変更問題は、本学が従来の学校法人京都精華学園から分離すると「精華」の名称を使用できなくなることを前提に検討がスタートしたが、高校側から、法人分離後も「京都精華大学」の名称を保持することへの賛同が得られ、結局「京都精華大学」という名称で新法人設立の申請を行うこととなった。これを踏まえて、柴谷学長は「京都精華大学」という名称が、懸念されたように「女子大と間違えられる」ことも「芸術大学だと認知されにくい」こともなく、25周年記念行事などを通じて社会により一層の好感を持って認知されているとし、「京都精華大学」の名称を当面は継続し、大学名称変更は保留、将来必要になった際に改めて検討を再開するという見解を示した。
  • 3月

    • ・阪神淡路大震災により修学困難となった学生に対して、学費減免等の救済措置および被災者援助短期貸付を実施。いずれも、阪神大震災を受けて、規程を定めた。
    • ・駒井四郎理事長が病気のため辞任。
    • ・柴谷篤弘学長が任期満了に伴い退任。
    • ・大学基準協会による大学認証評価を受審し、大学基準に適合していると認定された。

1995年度(平成7年度)

  • 1995年 4月

    • ・笠原芳光(人文学部教員)が学校法人木野学園の理事長に就任。
    • 斎藤博(美術学部教員)が学長に就任した。斎藤は、開学前より京都精華短期大学設立準備事務局で美術科のカリキュラムづくりを主導、開学してからは洋画教育に携わってきた。
    • ・学長連携会議を設置。中尾ハジメ(人文学部教員)が教学担当学長補佐に就任。
  • 6月

    • ・人文学部、美術学部に学部運営委員会を設置。学部内の諸問題を整理・検討し、運営の円滑化を図る。人事委員会も兼ねる。
  • 7月

    • ・陶芸・テキスタイル選抜展が東京六本木・麻生工芸美術館で開催される。初日はフォーラムも実施された。
  • 8月〜9月

    • 遠友館が竣工。学生自治会・学生クラブ施設として使用される。
    • ・食堂など厚生施設を備えた悠々館が竣工。学生が集う広場に面した曲面が印象的な明るい建物は、1階部分は食堂とレセプションルーム、2階部分はラウンジ、和室大広間および購買部になっている。全構成員がゆったりとくつろげる初めての空間となった。
    • 体育館が竣工。
    • ・グラウンド(面積1万800㎡)およびテニスコート3面が完成。
    • ・阪神・淡路大震災で破損した棟方志功の壁画の修復作業が始まる。大阪府高石市の岡本香陽写真場内に描かれたものが被災したため本学が修復したのち寄贈を受けることになった。
  • 12月

    • ・京都精華大学の収容定員の増加に関わる学則変更が認可され、美術学部3年次編入学定員が各学科共10名から20名に増加された。また、人文学部3年次編入学定員が認可される(入学定員は40名)。これに伴い、全国各地の短期大学34校と指定校推薦の協定を締結した。
  • 1996年 2月

    • ・本学主催の第2回京都国際マンガ展が高島屋グランドホールほか3カ所で開催され、総入場者数5万5000名を記録。
  • 3月

    • ・この年の卒業生全員を対象に、「学生生活に関するアンケート」を実施。本学の自己点検評価の一環として、卒業する学生が大学にどの程度の充足感を持っていたかを把握するために実施された。結果、全体の3分の2にあたる学生が「本学で学んだことに満足している」と答えた。また、入学時の期待度よりも卒業時の満足度の方が高くなっている点が特徴的だった。

1996年度(平成8年度)

  • 1996年 4月

    • ・美術学部3年次編入収容定員を増員。造形学科20名、デザイン学科20名に変更した。また、人文学部3年次編入制度を開始。定員は40名。
    • ・棟方志功の壁画の贈呈式が行われる。本学により「三女人菩薩」と命名された。
  • 6月

    • 自己点検評価報告書『教育の活性化に新しい視点を求めて』を刊行する。1991年の大学設置基準の改訂により、大学は教育の現状を自ら点検・評価し、学内外に明らかにすることが義務づけられた。これを受けて学内の特別委員会が報告書を作成。内容は具体的な教育活動を取り上げたレポート、学内諸施設の点検、非常勤講師の座談会、卒業生の満足度調査など、さまざまな角度から大学の姿を確認するものとなった。
  • 7月

    • ・丹後学舎開設10周年記念式典が行われる。
  • 9月

    • ・地方での父母懇談会(現在の教育懇談会)が初めて開催される。本学ほか、広島、福岡で開催。
    • ・同窓会「木野会」の西日本支部が発足する。
    • ・南カリフォルニア建築大学と一般協定、学生交換協定を締結。
  • 10月

    • ・伊谷記念朽木学舎開設20周年の記念祝賀会が行われる。
  • 1997年 1月

    • 矢ケ崎庄司(元人文学部長・同年3月に死去)より、本学とタイ国立チェンマイ大学との交流に活かしてほしいとの趣旨で、100万円の寄付を受ける。この寄付金を、築50年になるチェンマイの伝統家屋をチェンマイ大学の敷地内へ移築・改装するための費用に充てることに決定。建物には矢ケ崎元学部長の名前を冠し、「矢ケ崎メモリアルハウス」として97年12月にオープンした。
  • 3月

    • ・長年の課題であった、図書館とAV諸施設が融合した資料と情報の拠点「情報館」が竣工。16万冊の開架図書と600誌の雑誌、350席を有する閲覧室、100席の個人視聴ブース、インターネット利用端末、50名収容のAVホールなど、大学の方針や学生の特質に合わせて収容・設置された資料や設備は、学生総数3000名あまりの大学としては潤沢であった。最先端の映像・音響制作が可能な最新の機器や設備なども備え、マルチメディア時代に対応する最先端の総合情報施設となった。
      情報館のもうひとつの大きな特徴は、社会に開かれた施設としたこと。大学構成員以外の利用についても、基本的に制限を設けず、地域社会と一体となった生涯教育の実践に向けての「一般公開」を実現した。
      また、情報館完成にあわせて、多様な機能を持つ組織としての「情報館」もスタートした。情報館は「図書館」「AVセンター」「情報処理」「博物館」「研究所」「生涯学習」「出版」の7つの部門と機能を有しており、研究・教育環境の充実はもちろん、大学が世界に情報を発信していく拠点となることを目指す。
    • ・あわせて黎明館が竣工。大講義室2室、中講義室2室、小講義室4室、コンピュータ実習室3室からなる大規模な講義棟にはさまざまな最新鋭の設備が整っており、誕生は、長年の課題だった教室不足の解消だけでなく、本学の教育をさらに充実させることになった。
    • ・情報館と黎明館、悠々館に囲まれた広場、貯水池も整備された。貯水池は天ヶ池と名づけられ、学生が表現の場として使用できる水上ステージが設置された。そのまわりには、土地の起伏を利用して、池とステージを見下ろすように、学生たちが腰を下ろせる階段が設けられた。学生にとって、休み時間の語らいやくつろぎのスペースであることはもちろん、さまざまな表現活動に利用できる空間となった。
    • ・斎藤博学長が病気のため学長を辞任。

1997年度(平成9年度)

  • 1997年 5月

    • ・気療養のため辞任した斎藤博に代わり、人文学部教員の中尾ハジメ(片桐充)が学長に就任。中尾は1975年より本学の英語教育に携わり、その後、広報部長、副学長などを歴任。
  • 6月

    • ・スクールバス運行開始。京都市営地下鉄烏丸線の国際会館駅までの延長開通に伴い、同駅から学内までスクールバスの運行を始める。これによってJR京都駅および阪急電車京都線烏丸駅からのアクセスが大きく向上した。
  • 7月

    • ・人文学部、短期フィールドワーク実施。短期フィールドワークは、休暇中に行うプログラムで、初年度は国内のほか海外ではイギリスおよびタイで実施。
    • ・新学科設置検討委員会が発足し、2000年を目標にした学部・学科再編の具体案をまとめ、文部省への申請準備を行った。21世紀を迎えるにあたり、若年層の興味・関心の変化や多様化に対応した魅力ある大学をつくるため、また、少子化社会の到来に伴う学生数の減少に対応するための政策である。具体的には、①美術学部を「芸術学部」とし、造形学科・デザイン学科・マンガ学科の3学科に、②人文学部は現存の人文学科に「環境社会学科」を加えて2学科にする、という構想。
    • ・名古屋で父母懇談会(現・教育懇談会)を開催する。9月には東京で、10月には本学で開催。
  • 9月

    • ・天ヶ池横の新しい禽舎が完成。小豆島観光開発株式会社より寄贈された2つがいの孔雀などを飼育することになり、クジャク小屋と呼ばれるようになった。
  • 10月

    • ・「ギャラリー・フロール」開設。明窓館の1・2階を占める旧図書館を改装し、展示・展覧専用のスペースとして開設した。特別企画展や学内展等の開催に利用。
    • ・また、同じく明窓館の104号教室を多目的ホールに改修。音楽や演劇、映画に取り組む学生からの要望に応えたもので、防音や照明、音響などの設備も整えた。
    • ・情報館オープニング・イベントが始まる。まず、国際シンポジウム「美術と建築の壁を破る~東アジアの視点から~」が情報館と同時に完成した黎明館のL101教室で開催。基調講演は木村重信・国立国際美術館館長。討論は、日本から、美術家の中ハシ克シゲ氏、建築家の青木淳氏、妹島和世氏、韓国から、黄賢秀氏、中国からは張永和氏、台湾からは李鐡男氏、本学から小林陸一郎(美術学部教員)、理事長の笠原芳光が参加して行われた。会場には450名を超える聴衆が集まった。
  • 11月

    • ・情報館オープニング・イベントとして、イランの映画監督、アッバス・キアロスタミ氏の講演会が開かれた。「アッバス・キアロスタミ:わが映画と人生~大島渚と語る」と題され、映画監督の大島渚氏がホストを務めるかたちで、映画手法について語り合った。キアロスタミ監督はカンヌ国際映画祭パルムドール受賞後の初来日で、大きな話題を呼んだ。
    • ・その他、AVセンターやギャラリー・フロールでも、さまざまなパフォーマンスや展覧会が行われた。
    • ・「鹿野苑」が完成。鹿5頭の飼育を始める。広島県宮島町の「鹿寄贈します」という新聞記事を見て申し込み、譲り受けた。当初はキャンパス内に放し飼いにする構想もあったが、近隣への迷惑になる可能性が高いため断念。5号館の隣接丘陵地を柵で囲うことになったが、鹿たちは本学のアイドルとなった。

      宮島から譲り受けた鹿たちはアイドルに

  • 12月

    • ・「第3回京都国際マンガ展1997~地球温暖化防止会議を迎えて~」を京都髙島屋グランドホールで開催。入選作および世界24カ国からの出品作、約200点を一堂に展示。この年、京都でCOP3「地球温暖化防止京都会議」が開催され、この会議の成功を支援するために急遽開催することとなった。
    • ・「日韓ワールドマンガ展」を情報館「ギャラリー・フロール」で開催。韓国から200点以上、合計662点の出品があり、総入場者数3376名という大規模な催しとなった。
  • 1998年 3月

    • 『木野評論』29号発行、初めて書店での販売が始まる。情報館出版部門の新設を機に、学内誌という印象の強かった『木野評論』を外部からの視点のある本格的な評論誌として再生、広範に読者を獲得するため全国の書店で発売することとした。

1998年度(平成10年度)

  • 1998年 4月

    • 京都精華大学創造研究所を設立。文化と芸術に関わる広い領域を対象に、既存の枠組みにとらわれることなく、学術研究を深めることを目的につくられた。共同研究をその方法として採用した、単に成果を持ち寄るだけの旧来型ではなく、研究ディレクターが議論の核となり、新たな知的生産をなしうる共同研究のスタイルを追求する。
  • 5月

    • ・公開講座「GARDEN」開講。生涯学習への社会的要求の高さを受けてスタートしたが、本学ならではのテーマを扱ったレクチャーや、充実した設備を利用する造形や工芸のワークショップなど、独自のプログラムが多数用意された。社会人も参加しやすいよう、開講時間を平日夜間や土曜日に設定。有料で定員制なのも本学では初の試み。98年前期は吉岡忍氏ら有名作家が顔をそろえた「ノンフィクション講座」をはじめ、「写真講座」「身体表現講座」「宗教論講座」「環境論講座」の5講座を開講。予想以上の好評を博し、告知後すぐに定員が埋まってしまった講座もあった。
    • ・地球規模の課題である環境問題に取り組むため、環境マネジメントシステムの国際規格である「ISO14001」の認証取得を目指すことを決定。
  • 6月

    • ・中国・青島海洋大学と相互協力に関わる一般協定を締結。
  • 9月

    • ・同窓会「木野会」韓国支部、ならびに台湾支部開設。
  • 10月〜11月

    • ・創立30周年記念のプレイベントを1週間にわたって開催。河原町四条から河原町三条までのチンドンパレードを皮切りに、明窓館アートホールでは、モンゴルのホーミー 馬頭琴と踊り、ノノムラ・アヤ氏によるパントマイム、『突破者』で知られる作家・宮崎学氏の講演会、ジャズコンサート、昭和精吾氏のパフォーマンスなどが開かれた。
      また、悠々館前の広場に設けた特別ステージでは、学生を中心にしたプログラムを実施。演劇部、フォークソング部、軽音楽部、ジャズダンス部による公演が行われた。ゲストのモンキー・パンチ氏の講演、憂歌団のライブで、会場は大いに盛り上がる。
    • ・創立30周年記念行事として、学生自治会、同窓会の主催による「精華人の集い」開催。同窓生を中心に日本全国から約1000名が学内に集って、創立30周年を祝う。
    • ・創立30周年記念式典が催行される。30年の歴史を振り返り、16面マルチビジョンカーで映像を流した。中尾ハジメ学長、韓国同窓会会長らの挨拶、卒業生による和太鼓、ゴスペル公演なども行われた。そのあと大懇親会が開かれ、日が暮れるまで盛り上がった。
    • ・創立30周年記念行事として、ギャラリー・フロールにおいて「棟方志功肉筆画展―その宗教的な美」を開催。あえて自筆画に焦点を絞り、その宗教性に光を当てた展覧会で、来場者2万人を数え、大反響を呼んだ。
      11月には、展覧会を記念したシンポジウムが明窓館アートホールで開かれた。パネラーは、棟方が戦時中に疎開した躅飛山光徳寺の住職で、自らも民藝運動と深く関わってきた髙坂制立氏、元学長の中原佑介、理事長の笠原芳光。その模様はNHKでも放送された。
    • ・創立30周年記念行事として、アメリカの言語学者のノーム・チョムスキー・マサチューセッツ工科大学教授の講演会が明窓館アートホールで開かれた。世界的に知られ、社会的な発言が注目を集める思想家の講演に、600人の聴衆が集まった。テーマは「明日の世界を創る─大学の役割」。チョムスキー氏は「健全な社会で大学という存在は、既成の権力に従うイデオロギー注入の場ではなく、何物にもとらわれず、自由に考えることのできる場所であり、新しい発想の源でなくてはならない」と語った。
  • 1999年 1月

    • ・創立30周年記念行事として、インドの被差別運動家・プーラン・デヴィ氏の講演会が開催された。盗賊団の首領として多くの罪を犯しながら、民衆から義賊として慕われ、カースト制度と闘うようになったデヴィ氏が自らの人生を振り返りながら、「差別からの自由」「宗教からの自由」を語った。
      講演会は、宗教学者の山折哲雄氏との対談、そして「私の半生」と題するプーラン・デヴィ講演会の2部構成で行われた。
  • 3月

    • ・アメリカ・アイオワ州のコーネルカレッジと一般協定ならびに学生交換協定を締結。
    • ・国際センター開設。留学生の募集活動強化と受け入れの充実を目的に、旧セミナー館を改装してつくられた。1階は学習室。2階は談話室があり、主に留学生の会議やセミナーに使用。3階は国際交流課事務室および会議室。宿泊施設も併設し、海外提携校からの交換留学生受け入れに利用された。
    • ・創立30周年記念事業として、本学の職員からなる特別取材チームが、アウンサンスーチー氏、ジョゼ・ラモス=ホルタ氏、ダライ・ラマ14世の3人のノーベル平和賞受賞者を連続インタビュー。そのメッセージを収録し、冊子『自由へのメッセージ』と題して出版。同時にインターネットでもインタビュー内容を配信した。
      ミャンマー(ビルマ)の軍事政権の弾圧で当時、事実上の軟禁状態にあったビルマ民主化運動の旗手・アウンサンスーチー氏、インドネシアの侵略に抵抗し、東ティモール独立運動の中心的存在を担ってきたジョゼ・ラモス=ホルタ氏、中国軍の弾圧から逃れて亡命政権を樹立、非暴力的手段でチベット問題を訴え続けているダライ・ラマ14世。「自由自治」を教育理念に据える本学が「自由」のために身を賭して、独裁政権や外国軍の弾圧と闘い続ける3氏に、「自由」の意義を問いかけ、若者にメッージを発信してもらおうという企画だった。
      取材は全くコネクションがないなか、連絡先を探すところから始まり、最初は学内でもこの企画が実現すると信じる者は皆無だったが、若手職員を中心としたチームの粘り強い交渉で、1998年7月から9月にかけて3氏にインタビューすることに成功した。

1999年度(平成11年度)

  • 1999年 4月

    • ・特別任用教員制度を導入。
  • 7月

    • ・人文学部環境社会学科ならびに芸術学部マンガ学科設置の申請書を文部省に提出。入学定員は環境社会学科150名、マンガ学科50名。
      人文学部環境社会学科については、大学における教育・研究が現実の社会的課題の解決につながることを強く求められるようになったことに対応し、環境問題の根幹にある人間社会・人間文化に焦点を当てる学科を構想した。日本の大学で初めての設置であり、人文学部への設置も特徴的だった。また、人文学科の長期フィールドワークを発展充実させた「調査研究」など、他大学には見られない主体的学習の機会をカリキュラムに組み入れた。
      マンガ学科の設置も日本初であり、カートゥーンを中心に展開してきたマンガ分野に、ストーリーマンガを大きく取り入れ、複合的かつ総合的なメディア芸術としてのマンガの教育・研究体制を整備しようという目的があった。
      いずれも、これまで以上に留学生・社会人を迎え入れる国際主義の実現に向かって前進する計画。この定員増に関しては、留学生・帰国生・社会人の受け入れ枠の設定による留学生等条項の適用を申請する。
  • 8月

    • ・セクシャルハラスメント相談窓口を設置。
  • 11月

    • 「京都精華大学環境方針」を中尾ハジメ学長名で発表。地球環境問題への取り組みの必要性を認識し、環境マネジメントシステム(EMS)の確立と、役員・教職員・学生・委託会社の職員らが一致協力して環境負荷の低減と環境汚染の防止に取り組むことを謳い、EMSの実施を教育・研究に取り入れることを宣言した画期的なものだった。
  • 12月

    • ・登り窯が、伊谷記念朽木学舎の裏山の斜面に完成。焼成室3室を持つ。傾斜地を利用した登り窯は鎌倉時代に朝鮮から伝わった伝統的な窯で、三井建設株式会社の寄贈によって再現された。京都市内では登り窯は法令により焚くことができないため、朽木につくられることになった。在学生の授業のための活用を中心に、卒業生・社会人などにも利用対象を広げていく方針が確認された。
    • ・笠原芳光が理事長を退任。
    • ・杉本修一(専務理事)が理事長に就任。杉本は1968年に事務局に入職し、事務局長、企画室長等を歴任し、1994年度より専務理事を務めた。
  • 2000年 3月

    • 自在館が竣工。地下1階地上3階建て。テキスタイルデザイン、洋画、立体造形、カートゥーンマンガ、ストーリーマンガ専門分野の実習室とマンガ学科の研究室、コンピュータルームが入る複合型の校舎。芸術学部建築専門分野教員の新井清一の設計で、用途にとらわれて面白みに欠けた学校建築に、自在の精神から実験的挑戦の姿勢をあらわした。オープングラウンドを設けることで、全学年がひとつの空間に雑居し、その場所にいる全ての人がお互いの授業や実習作業を感じることを期待する建築。教員からの、教育の現場が金魚鉢のように透明な空間であってほしいという願いから生まれた。
    • ・究明館が竣工。建築専門分野の作業工房で、材料実験設備と木工作業、模型制作を行うための設備を備えている。家具や木材オブジェの製作の場として、広く学内全ての学生に開かれた場となる。芸術学部建築専門分野教員の葉山勉の設計による。
    • ・環境マネジメントシステムの国際規格であるISO14001の認証を取得した。 環境社会学科の設置にあわせて申請準備してきたもので、大学が全キャンパスを対象にISO14001の認証を取得したのは国内で初めて。学生を構成員に加え、全学的に環境マネジメントを行う画期的なシステムを考案した。省資源や廃棄物の分別排出はもちろん、芸術学部での薬品類の管理、廃水管理などから環境に関する研究成果の発信、環境マネジメントシステムの構築支援まで盛り込まれている。

2000年度(平成12年度)

  • 2000年 4月

    • ・美術学部を芸術学部に、大学院美術研究科を大学院芸術研究科に名称変更。狭い意味での「美術」の枠組みを超えて、より広範な領域を包含し、ますます多様で柔軟な展開を目指すためである。
    • 芸術学部マンガ学科開設。マンガ学科はストーリーマンガ専門分野とカートゥーンマンガ専門分野で構成される。入学定員はストーリーマンガ専門分野30名、カートゥーンマンガ専門分野20名。本学はこれまで大学教育の範囲外とされてきたマンガをいち早く教育に取り入れ、日本で唯一のマンガ専攻を設置し、美術教育として展開してきた。新設のマンガ学科は、これまでのアートとしてのマンガを基盤に、拡大と深化を続け、多様化するマンガの現在に対応するもの。1コママンガから、アニメ、ゲームまで、総合的にマンガ表現を対象とする、これまでに例のない時代の先端を切り開く学科である。
    • ・芸術学部デザイン学科ビジュアル・コミュニケーションデザイン(VCD)専門分野を、ビジュアル・コミュニケーションデザイン(VCD)専門分野、プロダクト・コミュニケーションデザイン(PCD)専門分野および映像専門分野の3専門分野に再編。入学定員は、VCD専門分野とPCD専門分野各35名、映像専門分野25名。
    • ・VCD専門分野は、視覚的な造形表現としての「情報」の追求を、PCD専門分野は「物」「空間」「情報」から成立する生活環境を融合的にデザインの立場から研究することを、映像専門分野は電子メディアを用いた映像表現を中心に、新しいデジタル映像時代のクリエータである映像デザイナーやメディア・アーティストの育成を目指す。
    • ・人文学部環境社会学科が開設。入学定員は150名。
      日本で初の設置となる環境社会学科は、環境問題を人間と社会の側から捉えるのが大きな特色。環境問題の文化的社会的全体像を理解し、解決への方法論を実践的に学ぶことを目的とする。
    • ・人文学部では、環境社会学科の設置に伴い、人文学科もカリキュラムを再編。「地域文化コース」「行動文化コース」「表現文化コース」の3つの視点で世界や人間、社会や文化にアプローチする。
    • ・人文学部環境社会学科開設を記念して、ダライ・ラマ14世をメインゲストに迎えた環境イベントを2日間にわたって開催した。
      16日には、本学体育館を会場に、人文学部環境社会学科開設記念ネイチャー・メッセージ「自然との共生を求めて」と題したダライ・ラマ14世の講演会が開かれた。会場は学生や一般市民ら1900人で満席。まず、かねてよりダライ・ラマを支援・支持してきた世界的な音楽家・坂本龍一氏が賛同スピーチを行ったあと、ダライ・ラマ14世が登壇し、会場の体育館は熱気と感動に包まれた。ダライ・ラマ14世は、人の心の平安や科学技術偏重など、現代が抱える問題を平易な言葉で語りかけた。また、「人はそれぞれ興味や関心が違う」と、質疑応答に多くの時間が割かれた。講演が終了し会場を出たあとも、水上ステージにすすんで立ち、集まった学生や市民と対話を続けた。
      翌17日には国立京都国際会館を会場に、環境社会学科開設記念シンポジウム、地球フォーラム「環境と人間~新しい生き方を求めて」を開催。パネラーにダライ・ラマ14世、フィンランドの心理学者・レオ・マトス氏、宗教思想家の笠原芳光(本学名誉教授・元学長)、本学から山田國廣(人文学部教員)。科学と宗教の相互の視点から、環境問題の解決に向けた人間のあり方が議論された。
      ダライ・ラマ14世のイベントを大学が主催し、公開の講演の場を設けたのは初めてで、大きな話題を呼び、2000席の聴講募集には2万通を超える応募があった。メディアの取材も殺到し、イベントの内容は内外から高い評価を得た。また、100名を超える学生が受付や誘導のボランティアに参加するなど、さまざまな意味で意義深いイベントとなった。

      学生たちに語りかけたダライ・ラマ14世

  • 5月〜6月

    • ・ニューヨーク国連本部パブリックロビーにて、本学と国連環境計画(UNEP)の共催による「第4回国際マンガ展『2000国際マンガ展イン ニューヨーク』」が開催された(5月1日〜30日)。6月5日の国際環境デーに向けてのメイン・イベントとして、「21世紀 人と自然と─美しい地球を生きる─」をテーマに、世界40カ国、240名のマンガ家から選ばれた68名が199点の作品を展示。国連本部では初のマンガ展となった。本学からは、教員、大学院生、学部生19名が参加。
    • ・同窓会「木野会」滋賀支部が設立される。
  • 2001年 1月

    • 岡本清一(初代学長)が死去。享年95歳。本学と遺族による合同葬儀が挙行された。式場の明窓館大講義室は参列者で埋まり、特設の祭壇は遺影と共に大学構内の樹木で飾られた。告別式では、岡本初代学長の生前の業績、人柄、思想的な素晴らしさを称える弔辞が数多く述べられた。葬儀委員長は、杉本修一理事長。

2001年度(平成13年度)

  • 7月

    • 「京都精華大学叡山閣」開設。比叡山山頂付近のホテル「比叡山ホテル」の和風別館である「叡山閣」を取得、改修した。研究室、ギャラリー、宿泊室のほか、100畳の大広間や京都市を一望できる多目的ホールを持つ、他に類を見ない研究施設となった。
    • 京都精華大学表現研究機構を設立。叡山閣を拠点に「表現」をめぐる事象を多面的に解明し、その可能性を探る研究機関で、中尾ハジメ学長が代表(機構長)を務め、以下の3つの研究所を持つ。①文字文明研究所は東アジアが持つ「文字」に焦点を当て、文字言語と各種文明、文化、芸術、表現との関係を明らかにする。②マンガ文化研究所はマンガが社会に影響を与える現況を直視し、その研究と教育のあり方や資料の収集・保存の仕方を提示し、文化としてのマンガの可能性を探る。③映像メディア研究所はネットワーク社会の双方向性に注目し、その共有性・融合性を活用して新しいネットワーク芸術の可能性を具体的に提案する。この3研究所は、文部科学省の私立大学学術研究高度化推進事業によってオープン・リサーチ・センター整備事業に採択された。
    • ・日本マンガ学会を設立。マンガ学科の設立に伴い、マンガを学問の一領域として位置づけることを目的として設立された。日本初のマンガを対象にした学会で、学術研究と共に著作権等の社会問題も研究領域とする。初代会長は中尾ハジメ(学長/表現研究機構長)。
      7月29日には、日本マンガ学会の設立大会が開かれ、学会の設立の趣意書が読み上げられた後、会則、活動方針が発表され、初代会長となった中尾学長の挨拶があった。同学長は、「マンガ学会の発足は、大学の新しい姿を見出す契機を与えることになるかもしれない」と語った。同日午後には、第1期学会役員がパネリストとなったフォーラムが開かれた。
      7月30日には、日本マンガ学会と本学マンガ文化研究所の合同シンポジウムが開かれ、マンガをめぐる著作権などの法律問題が中心議題となった。
    • ・マンガ文化研究所開設記念特別講演会を開催。哲学者の鶴見俊輔氏が「アンパンマンにひかれて」と題して叡山閣で講演。午後には本学マンガ学部教員である竹宮惠子(マンガ家)、山本順也(元小学館編集長)、マット・ソーン(マンガ研究者・文化人類学者)によるフォーラムが開かれた。
  • 8月

    • 文字文明研究所開設記念「第1回比叡頂上銷夏講座」を叡山閣で5日にわたって開催。講師は書家の石川九楊(文字文明研究所長)にくわえ、詩人の吉増剛造氏、デザイナーの浅葉克己氏、マンガ評論家の夏目房之介氏等6名。
  • 9月

    • ・映像メディア研究所開設記念ネットワーク・アート・ライブパフォーマンス公開。叡山閣ギャラリーで所長の山本圭吾(芸術学部教員)が企画・制作した映像イベントを発表。映像とパフォーマンスをインターネットで融合してWeb上に公開する。
    • ・同窓会「木野会」東海支部が設立される。
  • 12月

    • ・一般入試で出題ミスが判明。2001年2月実施の芸術学部一般入試「英語」などで生じた。再判定の結果4名を追加合格とした。
  • 2002年 1月

    • ・アメリカ・ロードアイランド美術大学と学生交換協定を締結。
  • 3月

    • ・韓国・ソウルの弘益大学と一般協定ならびに学生交換協定を締結。

2002年度(平成14年度)

  • 2002年 4月

    • ・人文学部社会メディア学科ならびに文化表現学科設置の申請書を文部科学省に提出。人文学部は人文学科と環境社会学科2学科で構成されていたが、人文学科が社会メディア学科と文化表現学科に再編され、環境社会学科とあわせて3学科になる。社会メディア学科は、情報メディアを活用し、現代社会を研究する。文化表現学科は文化や芸術、芸能を幅広くカバーし、表現を実践的に学ぶ。環境社会学科は、社会や文化など、幅広い領域から環境問題にアプローチする。この再編は、インターネットの普及やグローバル化がもたらす社会の変革に対応し、より実践力のある人材を育成することを目的とした。
  • 6月

    • 大学院芸術研究科博士(後期)課程設置を文部科学省に申請。
      芸術表現が古典的な枠組みにおさまりきらなくなったことを背景に、さまざまな表現ジャンルを超え、政策と理論を結合した新しい芸術の構築と研究が可能な機関を目指す。なお、これに伴い、「大学院芸術研究科修士課程」は「大学院芸術研究科博士(前期)課程」となる。
  • 7月

    • ・マラウイ共和国・マラウイ大学と一般協定を締結。
    • e-box開設。キャンパス入口前の施設を購入・改装し、新しいかたちの学生へのキャリア支援の場とした。1階のふたつの教室では、就職支援資格講座を開講。2階は、卒業生が立ち上げた環境マネジメントNPO団体「木野環境」、在学生中心のNPO団体「遊び工房」が利用。
  • 9月〜11月

    • ・人文学部文化表現学科、社会メディア学科開設に向けて、4回にわたって記念連続講演会を開催。第1回は、中国の日本大使館への脱北者駆け込み事件を鋭く取材したジャーナリストの石丸次郎氏。第2回は、写真家の橋口譲二氏と、翌年から社会メディア学科の教員となる西研氏の対談。第3回は、マクドナルドの店舗建設阻止で知られるフランスの反グローバリズム・農民運動家・ジョゼ・ボヴェ氏。最終回の第4回は、社会学者の上野千鶴子(人文学部元教員)、同じく社会学者の橋爪大三郎氏、教育社会学者の苅谷剛彦氏、哲学者の西研氏、本学の中尾ハジメ学長による、「新しい大学の使命」をテーマにしたパネルディスカッションが行われた。
  • 10月

    • ・学生食堂「れあた」開店。1974年の開店以来中華メニューを中心に、学生たちに親しまれてきた本学近隣のレストラン「りとる・れあた」の跡地に、一般客も利用できる学生食堂として開設。屋号も「りとる・れあた」にちなむ。
  • 11月

    • ・大学基準協会の正会員に認定される。
  • 2003年 2月

    • ・フィンランド・トゥルクアーツアカデミーと一般協定を締結。
  • 3月

    • ・「京都精華大学の使命」「京都精華大学の基本理念」「京都精華大学の教育における責任」「京都精華大学の経営における責任」という4つの宣言文書が発表された。本学は、短期大学創設時に初代学長・岡本清一が提示した「教育の基本方針に関する覚書」を建学の理念として掲げてきたが、大学の規模の急速な拡大によって、短期大学時代を知らない教職員も増え、建学の理念への意識も薄らいできた。そこで、岡本が掲げた理念を再確認するために、四年制大学として、改めて本学の理念と使命、方向性を指し示す文書を発表したものである。
      文書の内容は、岡本が「教育の基本方針に関する覚書」などで提唱した人間の尊重、自由自治、人格的平等主義、国際主義をそのまま引き継いだうえ、京都精華大学の構成員の教育、経営上の責任を明確にするもの。文書は中尾ハジメ学長によって作成され、理事会で承認された。

1993年度のできごと

国連カンボジア暫定統治機構下で日本から派遣のボランティアと文民警察官が殺害される。天皇、皇后が初めて沖縄訪問。サッカーJリーグ開幕。バブル崩壊で新卒採用を見合わせる企業が続出。細川護熙日本新党代表が内閣総理大臣就任、38年ぶりの非自民党政権発足。EU発足。南アフリカのネルソン・マンデラ・アフリカ民族会議議長にノーベル平和賞。

大学設置基準の大綱化

「大学設置基準の大綱化」とは、それまでの旧制大学を規範とする大学設置基準では多様な社会のニーズに対応できなくなったことから、1991年に行われた大学設置基準等の改正を指す。これにより文部省の大学に対する規制が緩和された。授業評価や自己評価システムの導入等も含め、これ以降、日本の大学は大きな変革期に入ったが、これらの変化のことは「大綱化以降」と称される。

京都精華大学の法人分離

京都精華女子高校を運営する京都精華学園からの法人分離は、もともと、1971年9月、京都精華短期大学時代の財政悪化に端を発し、高校からの申し入れで分離方針が決定していた。その後、独立採算とし、法人は現状維持が続いていたが、大学側が高校側の反対する施設整備総合計画を進めることを決定。今度は大学のほうから大学法人分離の実行を要請することになった。その結果、92年5月に理事会、評議会で、「学校法人の分離について関係官庁へ折衝を始めること」が決議された。

SEIKA AFRICA DAY

「SEIKA AFRICA DAY」メインゲストのフクウェ・ザヴォセは「七色の声」と呼ばれる歌声の持ち主で、アフリカで最も注目されているミュージシャンの1人。来学のきっかけとなった斎藤博(美術学部教員)の『追憶のアフリカ展』も先行して開催。

駒井四郎

駒井四郎は開学当初の1970年より「学校法人京都精華学園」の短大側外部理事を務めた。本学の理解者だった上野直蔵・同志社大学第15代総長との共著『教育白書と私立大学の立場―新しい教育理念は新しい皮袋に』がある。

イマニュエル・ウォーラーステインはアメリカの政治社会学者。資本主義を分析するのに、世界全体をひとつのシステムとして捉える「世界システム」という概念を打ち出し、その提唱者・指導者として認められる。著書に『近代世界システム』等多数。

1994年度のできごと

村山富市・社会党委員長が首相に。6月、松本サリン事件発生。犯人不明のまま翌年3月、地下鉄サリン事件発生、オウム真理教教団施設を強制捜査。金日成・北朝鮮主席死去。関西国際空港開港。大江健三郎にノーベル文学賞。イスラエルのラビン首相、パレスチナ解放機構のアラファト議長らに同平和賞。95年1月、阪神淡路大震災発生、死亡・行方不明6437人。

施設設備総合計画の第2期第2次工事

施設整備総合計画に基づく第2期工事は第1次、第2次に分けられ、すでに第1次工事の食堂厚生棟(現・悠々館)、クラブ・自治会施設(現・遠友館)、体育館などは着工しており、竣工が間近に迫っていた。

知の工房で対論する梅原猛氏と笠原芳光元学長

〈知〉の工房の前身となったのは、1993年10月~12月に京都市社会教育センターで「市民講座」という形式で開催された、人文学部教員の松本健一と岡井隆による連続対論。

大学名称変更問題

1992年6月、理事会は新名称を「洛北大学」とする方針を打ち出したが、学内で反対運動が起きて頓挫。その後いくつかの対案が提出されたがいずれも全学的な支持を受けるには至らず、理事会は対応に苦慮していた。

1995年度のできごと

為替レートが1ドル79円の当時最高値を記録。地下鉄サリン事件でオウム真理教教祖、松本智津夫逮捕。村山首相がアジア諸国に植民地支配と侵略を謝罪。沖縄米兵少女暴行事件で、基地の縮小と地位協定の見直しを求める声高まる。住専破綻、公的資金注入決定。ウィンドウズ95が発売され、ネットが普及の兆し。高速増殖炉「もんじゅ」が事故で連転中止に。薬害エイズ事件で菅直人厚生相が国の責任を認め謝罪。

斎藤博

斎藤博は、美術教育に取り組む一方、洋画家としても精力的に活動してきた。若い頃は具象画が中心だったが、その後、抽象画、ミクストメディアなどの最先端の作品にも挑戦した。展覧会に素描展「1972乾期 東アフリカ・サバンナの旅にて」など。本学開学時の美術科主任で、画家の伊谷賢蔵は岳父に当たる。

悠々館

悠々館は鉄筋コンクリート造2階建、延べ床面積2072㎡。

遠友館は鉄筋コンクリート造2階建、延べ床面積は北棟が408㎡、南棟が435㎡。

体育館は鉄筋コンクリート造3階建、延べ床面積3106㎡。

棟方志功の壁画破損のニュースを知り、本学の側から修復に名乗りを上げた。壁画の鑑定には、生前の志功と親交があった藤田慎一郎・大原美術館館長があたった。修復作業は、文化財の修復専門業者が壁画を住宅の壁ごと切抜き、樹脂加工して、特別製の陳列ケースに収めるという日本では稀に見る難作業だった。作業の要所は東京文化財研究所のフレスコ画修復専門家の指導を受け、約7カ月かけて完成した。

1996年度のできごと

日米両国政府が沖縄の米軍普天間飛行場を「5年ないし7年以内に全面返還」と発表。病原性大腸菌O-157による集団食中毒多発。安部英・前帝京大副学長らが逮捕される。12月、ペルー日本大使公邸人質事件発生、敦賀原発2号機で冷却水漏れ事故発生、以後事故隠しが問題化。

自己点検評価報告書

この自己点検評価報告書の中で、美術学部については、発足以来の特色である「学外実習」を取り上げ、これまでの経緯と将来の可能性を検討。人文学部のテーマは、新カリキュラムにおいて学部の導入となる「人文学部への視点」の試行と模索について。新しい建物への移動を契機に新展開をはかる図書情報館(後の「情報館」)も、業務を総点検した。

矢ヶ崎庄司

矢ヶ崎庄司は人文学部の初代学部長を務めた。中山容(なかやま・よう)の筆名で、スタッズ・ターケルの『仕事!』『よい戦争』等、また同じく本学人文学部教員の片桐ユズルと共に『ボブ・ディラン全詩集』の翻訳も手がけた。

情報館の閲覧室

情報館は鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建、 延べ床面積4746㎡。
・地下1階(書庫)…開架の書庫と、博物資料の収蔵庫、学術雑誌の書架がある。
・1階(AVセンター)…100席の個人視聴ブース、50名収容のAVホール等の設備は大学図書館として最大級。
・2階(情報センター)…事務室と参考図書スペースがあるメインフロア。
・3階(閲覧室)…全長70mの室内に図書・雑誌・新聞が並び、セミナー室も。

黎明館は鉄筋コンクリート造3階建、延べ床面積2676㎡。

1997年度のできごと

消費税増税5%に。ごみ焼却場のダイオキシン濃度が問題化。神戸市で中学3年の男子生徒が児童を連続殺傷。臓器移植法成立。香港返還。日米防衛協力のためのガイドライン改定。山一證券が自主廃業。地球温暖化防止京都会議で京都議定書採択。北野武監督『HANA-BI』がベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞。98年2月、長野オリンピック開催。

中尾ハジメ

中尾ハジメは、京都の文化の発信拠点となった喫茶「ほんやら洞」のオープン・運営や、「南ベトナムの政治犯を釈放する運動・京都」の立ち上げにも携わった。反核、環境運動の活動家としても知られ、主な著書には『スリーマイル島』『2020年の原発問題』、翻訳には『性と文化の革命』『水俣 写真集』等がある。

多目的ホール

多目的ホールはのちに「明窓館アートホール」と名づけられた。

アッバス・キアロスタミ

イランの映画監督。1987年の『友だちのうちはどこ?』からの三部作で国際的な注目を浴び、世界的な映画監督として名を馳せる。ドキュメンタリータッチの作風が特色。2016年没。

大島渚

大島渚は1973年4月にもアセンブリーアワーのゲスト講師として来学した。

さまざまなパフォーマンスや展覧会が行われた。

情報館オープニング記念 イベントとしては、ほかに 「戦慄の残像─伊藤高志 自作を語る─」「竹ち代毬也─舞踏公演」「嶋本昭三×伊奈新祐パフォーマンス『女拓』をめぐって」「磁性体計画マグネプロジェクト」等が開催された。また、ギャラリー・フロールでの情報館オープニング記念展示として、収蔵品展「洛北木野の色づかい 精華にかかわった人々展」「崇高な神々 中国画像石の拓本展」「戦争の残像 今井憲一遺作展」が開催された。

初の一般書店販売となった『木野評論』第29号の特集は「流行りの文化超研究」。吉本隆明氏、宮台真司氏、松岡正剛氏、ダムタイプ等の豪華な執筆陣がメディア、アート、思想、性等の領域での流行を分析している。大学発行の評論誌としては類例がないとして、新聞各紙でも紹介され、売れ行きも発売3カ月で3000部を超えた。

1998年度のできごと

明石大橋開通。インドの核実験に対抗しパキスタンが初の核実験。石川県で「クローン牛」誕生。和歌山毒入りカレー事件で4人が死亡、63人が中毒症状。北朝鮮が弾道ミサイル「テポドン」発射。日本長期信用銀行系のノンバンク、日本リース倒産に対し、特別公的管理。99年1月、ヨーロッパの統一通貨ユーロがイギリス等を除くEU11カ国に導入。世界の人口が60億突破。

京都精華大学創造研究所

京都精華大学創造研究所では、1998年に、所長である橋爪紳也(人文学部教員)を含め5人の研究ディレクターのコーディネートで5つのプロジェクトがスタート。新しい知と新しい研究領域を創造することを目標とした。

ISO14001

企業等が自分たちの活動や製品、サービスが地球環境に与える負荷を減らすために、環境対策の目標を定め、実行し、結果をチェックする仕組みを「環境マネジメントシステム」と呼ぶが、それが継続的に改善されていることを認証する国際規格がISO14001である。認証機関による審査を経て与えられ、3年毎の更新審査によって、再評価される。

モンキー・パンチ

『ルパン三世』で知られる漫画家。講演は雨のなか、200人を超える聴衆を集め、即興でルパン三世の絵を描くパフォーマンスが会場を沸かせた。

精華人の集い

「精華人の集い」には、岡山からバスを1台貸しきり、団体で参加した卒業生グループも。また、午前中は、社会で活躍する卒業生が在校生に向けて、経験談や就職に関する社会の現状等を話す「キャリアガイダンス」も開催された。

ノーム・チョムスキー講演会

エイヴラム・ノーム・チョムスキーはアメリカの哲学者、言語哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者。1957年に発表した『文法の構造』により変形生成文法の理論を提唱、言語学会に革命をもたらし、コンピュータサイエンスや数学、心理学の分野等にも影響を与えた。著書に『言語と精神』『言語理論の現在の問題点』等多数。

プーラン・デヴィ講演会

プーラン・デヴィはインドの女性政治家。インドの最下層カーストに生まれ、幼い頃からの苛酷な虐待の復讐として、盗賊に。「盗賊の女王」とまで呼ばれていたが、その後、カーストや性差別と闘う非政府組織(NGO)を結成、国会議員にまで上りつめる。その半生を描いた映画『女盗賊プーラン』はカンヌ映画祭に出品され、1996年に出版された自伝は日本でも70万部のベストセラーに。新聞やテレビ等多くの取材、インタビューを受け、注目を集めた。2001年、自宅前で射殺された。

山折哲雄

日本を代表する宗教学者。京都造形芸術大学大学院長、国際日本文化研究センター所長等を歴任。著書に『空海の企て』『愛欲の精神史』等多数。

コーネルカレッジ

コーネルカレッジは学生数1200人程度の小規模な大学だが、リベラルアーツ系大学では全米ランキングで常に上位に入る。またアイオワ州の大学の中で初めて女性に学位を与える等、女性の社会的地位向上に貢献してきた大学でもある。

アウンサンスーチー

ミャンマーの非暴力民主化運動の指導者、政治家。1980年代末から民主化運動に取り組み、軍事政権に抵抗し続けた。その間、14年以上も拘束・自宅軟禁されたが、それでも屈せず、91年にノーベル平和賞を受賞。2016年発足の新政権では、「国家顧問」に就任、外相と大統領府相も兼任。

ジョゼ・ラモス=ホルタ

1974年、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)の設立に参加。88年末、東ティモール民族抵抗評議会設立。96年東ティモール紛争の正当で平和的な解決への尽力によりベロ司教と共にノーベル平和賞を受賞。2002年東ティモール独立と共に外相となり、首相を経て、07年、大統領に。

ダライ・ラマ14世

チベット仏教の最高指導者。中国の弾圧により、インドに亡命。チベット亡命政府を樹立、2011年に政治的トップを引退した後も精力的に各国を訪問し、世界平和に向けた活動を行っている。対話を重視した非暴力による問題解決の取り組みにより、1989年にノーベル平和賞を受賞。

3氏のインタビューを収録した『自由へのメッセージ』

特別取材チームに参加した職員の一人は、冊子『自由へのメッセージ』のあとがきで、「みんなが考えつかないこと、はなからやれないと思い込んでいるようなことに、30周年記念として取り組みたかった。既成の枠組みを解体し、新しい可能性を「提示」することこそが、わたしたちの信じる京都精華大学だからである。」と書いている。

1999年度のできごと

国旗国歌法、通信傍受法、改正住民基本台帳法が成立。JCO東海事業所で国内初の臨界事故。「国境なき医師団」にノーベル平和賞。埼玉県桶川市で女子大生がストーカー行為を受け刺殺、翌年、ストーカー規制法施行。普天間基地返還問題で辺野古が移設候補地に。マカオが中国に返還。携帯電話・PHSの加入が5000万台突破。

京都精華大学環境方針

京都精華大学環境方針は2014年に改訂され、新たに竹宮惠子学長名で発表された。

自在館は鉄骨造地下1階付3階建、延べ床面積3913㎡。

2000年度のできごと

介離保険制度開始。森喜朗首相が問題発言を連発して支持率低下。大手企業の倒産、銀行の統廃合相次ぐ。朝鮮半島分断後初の南北首脳会談。雪印乳業製品の大量食中毒事件。金大中・韓国大統領にノーベル平和賞。01年1月、中央省庁が1府12省庁に再編。2月、日本の水産高校の練習船「えひめ丸」とアメリカの原子力潜水艦が衝突。高校生ら9人が犠牲に。

芸術学部マンガ学科

マンガ学科では、大学の枠を超えてプロの仕事に触れる体験プログラム(インターンシップ・プログラム、作品講評会)を用意。コンテンツとテクニックをつなぐダイナミックな教育を行う。

解決への方法論を実践的に学ぶ

環境社会学科では、「調査演習」「環境実務研修」「海外フィールドワーク・プログラム」等、学際的アプローチで環境問題の総体を実践的に学び、現場を重視する多様な体験学習プログラムも準備した。

2日間にわたって開催

ダライ・ラマ14世の招聘に対する中国政府からの抗議は激しく、また教職員への圧力も大きかったが、杉本修一理事長は「大学の存在は国家より大きい」と語り、本学はこれらを全て退けて講演会を実施した。

坂本龍一

音楽家。1978年、細野晴臣、高橋幸宏と「YMO」を結成、1983年の活動停止後はソロ活動を行う。現代音楽の手法と民族音楽の要素を巧みに駆使し、多方面で活動。近年は各メディアで環境問題や平和問題をはじめとした諸問題について発言する機会も多く、ダライ・ラマ14世についても一貫して関心を寄せている。

地球フォーラム「環境と人間~新しい生き方を求めて」

ダライ・ラマ14世はこのシンポジウムで「苦しみは勝手に生じるわけではなく、それぞれに原因と状況がある。人間関係は互いに依存することによって成り立ち、自分の社会が幸せなら自分も幸せという相関関係が成り立つ。環境問題に対しても同じように考えることができる」と語った。

岡本清一(初代学長)が死去

岡本は亡くなる1年ほど前から、心臓の疾患によって入退院を繰り返していた。1月10日、長男や教え子に見守られ自宅にて息を引き取った。

2001年度のできごと

情報公開制度開始。小泉純一郎が首相に就任。大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件が発生。アメリカ同時多発テロで約3000人が死亡、アメリカと有志連合諸国はアルカイダの犯行であるとしてアフガニスタンのタリバン政権を空爆。日本も自衛隊を海外派遣。千葉県でBSEに感染した牛を確認。中国がWTO加盟。

表現研究機構が設置された京都精華大学叡山閣

叡山閣は鉄骨造地下1階付3階建、延べ床面積2684㎡。リノベーションのデザインは葉山勉(芸術学部教員)。

京都精華大学表現研究機構

①文字文明研究所所長は書家の石川九楊。②マンガ文化研究所所長は牧野圭一(芸術学部教員)。③映像メディア研究所所長は山本圭吾(芸術学部教員)が就任した。

日本マンガ学会の設立大会

その後、日本マンガ学会は、11月3日、4日に第1回総会を京都精華大学で開催。

鶴見俊輔

哲学者、大衆文化研究者。戦後の進歩的文化人を代表する1人。鶴見氏は本学のよき理解者で、さまざまな講演やプロジェクトに協力してくれた。著書に『戦時期日本の精神史』『限界芸術論』等多数。2015年没。

文字文明研究所

9月より、文字文明研究所主催「連続講座」を開催。叡山閣で毎月1回開催する会員制有料公開講座。

ロードアイランド美術大学

ロードアイランド美術大学は、ロードアイランド州のプロビデンスに位置する世界的にも非常に評価の高い美術大学。世界中から優れた学生を集め、キャンパス内にある美術館には世界中から集められた芸術作品が展示されている。

弘益大学

弘益大学は、1946年にHongik Collegeとして創立された。同大学は特に美術学部とデザイン学部が有名な大学で、そのレベルは韓国一を誇る。

2002年度のできごと

公立学校で「ゆとり教育」スタート。米格付け会社が日本の長期国債を途上国並みに格下げ。アジアで初のサッカー日韓ワールドカップ開催。住基ネット稼働、6自治体が参加見送り。ナスダックが日本市場から撤退。東京電力の原発事故隠しが発覚、歴代4社長総退陣。小泉首相が日本の首相として初めて北朝鮮訪問。北朝鮮から5人の拉致被害者が帰国。

大学院芸術研究科博士(後期)課程設置

大学院芸術研究科博士(後期)課程は芸術1専攻となり、ファインアーツ、デザイン、メディアの3領域で構成される。

e-boxの「e」は、「拡張」を意味する英語のエクステンション、e-ラーニング、エコロジーの頭文字をとった。鉄骨造2階建、延べ床面積247㎡。

ジョゼ・ボヴェ

フランスの酪農家。アルテルモンディアリスム(政治・経済・社会等における人権、民主主義、平和、社会的公正の構築等のグローバル化を模索・推進する運動)の代表的運動家。欧州議会議員。

れあたは木造平屋建、延べ床面積169㎡。設計は卒業生の設計事務所「落花生設計堂」。

トゥルクアーツアカデミー

トゥルクアーツアカデミーは、フィンランド第2の都市、トゥルクにあるフィンランド最大の高等教育機関トゥルク応用科学大学に属する美術大学。起業家教育・アートマネジメント教育を積極的に導入している。