History大学の歴史

1974-1983

悲願の四年制化が実現、
成長の時代へ

精華にとって、四年制大学への移行は開学当初からの悲願だった。経営の安定と自立、そして理想の大学教育を実現するためには不可欠だと多くの教職員が考えていた。1974年、まず美術科を発展させる準備が動き出す。カリキュラムの作成、教員の増員と選定、施設の拡充、それらを支える資金計画。議論を重ねて文部省に申請するが、却下・先送りが繰り返され、そのたびに計画を練り直した。ついに認可されたのは78年。3度目の挑戦だった。79年、京都精華大学美術学部が開設。短大創立から11年。精華は揺籃期を脱し、ここから成長期に入ってゆく。

1974年度(昭和49年度)

  • 1974年 4月

    • 深作光貞(英語英文科教員)が学長に就任。深作はカンボジアの地域研究を専門とした文化人類学者。本学の開学と同時に教員となり、一般教育主任など役職も務める一方、多彩な人脈を活かして、さまざまなイベントやプロジェクトを企画してきた。
    • ・事務局長が再び公選制に戻り、杉本修一が事務局長に選任される。
    • ・1年生が学科の枠を超えて自由に選択履修するゼミ形式の授業「基礎演習」が開講される。この基礎演習は教員だけでなく、職員もテーマを設けて教壇に立った。職員も学生に教えることは意義があるという岡本清一学長の考えに基づくものだった。
  • 11月

    • ・杉本修一事務局長が理事との兼任を避けるため事務局長を辞任。選挙の結果、総務・経理担当の景山喜巳が新事務局長に就任。
  • 12月

    • ・四年制大学設立準備委員会が発足。「四年制大学」の開設については、美術科教員を中心にした「四年制設立調査検討委員会」を設置して、調査研究を続けていたが、それを引き継ぐかたちで、より具体的な計画を検討・準備するために、四年制大学設立準備委員会を設置した。創立当初からの教職員・学生の願いだった、四年制美術学部の開設に向けて、具体的な準備が始まる。

1975年度(昭和50年度)

  • 1975年 4月

    • 給与制度が改定される。当初は、教授、助教授、講師、助手、事務職員間の給与格差があり、開学直後から「教職員平等の理念に反する」との批判があり、1970年の3段階への改定を経て、今回の改定で年齢給に一本化(用務員を除く)。開学以来の教職員平等の思想が、給与面で実現した。
  • 6月

    • ・学外厚生施設として伊谷記念朽木学舎を開設。開学時から美術科主任教授を務めた故・伊谷賢蔵の遺族からの寄付を基金として、琵琶湖西部の安曇川上流、滋賀県高島郡朽木村針畑地区、廃校となった朽木中学校西分校の土地と建物を購入し、改修したもの。改修には学生もペンキ塗りなどで参加した。精華としては初の学外施設であり、合同授業やクラブ合宿等に活用されることになった。
  • 7月

    • ・前年12月より議論してきた四年制大学開設に向けて、京都精華大学美術学部設置申請書と英語英文科収容定員変更申請書を文部省に提出した。美術学部開設の申請にあたっては、四年制大学設立準備委員会は同委員会内での議論だけでなく、学生とも議論を深め、カリキュラムや設備等についても意見を交わした。
    • ・英文による研究紀要『The Kyoto Seika English Papers』を『Kyoto Review』に改称。
  • 1976年 2月

    • ・四年制美術学部設置申請と英語英文科収容定員変更申請を文部省に却下され、申請を取り下げる。文部省より開学を1977年から1年先送りし、①短期大学英語英文科の収容定員と実定員の格差是正を図ること、②教育条件の整備を図ることの二点について指導を受けた。②については、担当者から施設と資金は大学設置基準を満たしているが、実際の運用では不十分になる可能性を指摘された。この結果を受け、改めて準備体制を立て直すことになった。

1976年度(昭和51年度)

  • 1976年 4月

    • ・セミナー館開設。隣接した山の斜面に建っていた建物を購入し、改修。主に少人数のセミナーに利用されることになった。
      あわせて、セミナー館の隣接土地を2796㎡購入。
  • 6月

    • ・英語英文科の収容定員を150名から250名に変更する申請書を文部省に提出。
  • 7月

    • ・前年に続き、四年制大学美術学部設置の申請書を文部省に再度提出。
  • 12月

    • ・英語英文科の定員増加は認可されたが、四年制大学設置申請が再び却下された。施設設備や教学体制は基準以上で充分だと学内では考えられていたが、四年制への移行はまたしても認められなかった。その理由はまず、直前に「政令指定都市での大学設立を規制する」という法律が定められたばかりで、京都が政令指定都市であること、そして、京都の美術系大学の収容定員は京都市立芸術大学だけで十分である、というものだった。
      しかし、深作光貞学長はじめ執行部は設置申請を断念することはなく、四年制美術大学の必要性を文部省に認識してもらう努力が足りなかったという反省のもと、1979年の開学に目標を切り替え、再々度の申請に向けて、準備を進めていくこととなった。
  • 1977年 1月

    • ・英語英文科収容定員変更届が受理され、150名から250名に増員された。
  • 2月

    • ・助手規程改正。助手の勤務規程に関する批判が高まり、教授会での議決権を認める等の改正が行われた。

1977年度(昭和52年度)

  • 1977年 4月

    • ・テニスコート2面、バレーコート1面が完成。大学から徒歩5分のところにある幡枝町の教職員住宅向かいの土地を購入してつくられた。体育の授業や、学生、教職員のサークル活動に利用できるようになった。
  • 5月

    • 給与検討委員会が設置された。深作光貞学長より任命を受けた3人の委員で構成される委員会で、①定年制、②手当、③賃金カーブ、④用務員給、⑤非常勤給等、人事に関する諸問題を取り上げ、給与体系のあり方について検討を始めた。
    • ・橋本重郎理事長が退任。
  • 6月

    • ・宮本正清(一般教育教員)が理事長に就任。宮本は1969年に本学教員に赴任、1972年から1974年まで学長を務めた。
  • 7月

    • ・四年制大学美術学部設置申請書を文部省に再々度提出。深作光貞学長の全学をあげて四年制大学を創り上げるという方針に基づき、各部署で、教学条件や施設の改善が進められた。また、深作学長のこれからの美術教育は実社会との関係を考慮すべきという考えと、政令都市では大学の新設を認めないという法律に対処するために、今回の申請では、さまざまな伝統美術・工芸が存続する京都だからこそ四年制美術学部が必要であるとして、京都の伝統産業・工芸に資する教育を前面に打ち出した。美術学部を造形学科とデザイン学科の2学科とし、特にデザイン学科では、京都の伝統産業に貢献できる人材を育成することを掲げた。
  • 11月

    • ・学園祭のイベントで、2号館屋上につくった高さ8メートルのキングコングの人形が炎上。なんとか火は消し止められたが、一時は巨大な炎が上がり、大火事寸前の状態になった。
  • 12月

    • ・四年制大学開設の第1次審査を通過。
  • 1978年 3月

    • ・四年制大学設置認可に向けて、延床面積2600㎡の予定で実習棟増築工事(現・5号館)が着工される。
    • ・当時のグラウンド(現在の風光館の場所)に隣接する土地3584㎡を購入。

1978年度(昭和53年度)

  • 1978年 4月

    • ・四年制美術学部認可の第2次審査と開設準備に向けて、検討が本格化。美術学部カリキュラム検討委員会では、京都の伝統産業・工芸の現場で研修する「学外実習」や学科を超えた共通科目の設置等の方針が打ち出された。
      従来の美術教育にはなかった「学外実習」という斬新なプログラムは、京都の伝統産業・工芸に資するという今回の四年制美術学部申請のコンセプトに沿うもので、本来は認められない政令都市での四年制認可という高いハードルを越えるための大きなアピールポイントとなった。
      また、京都での四年制美術学部に日本画専攻がないとの指導が私立大学審議会の専門委員からあり、急遽、日本画専攻の開設を決定。準備に入った。

      旧食堂も粗末な建物だった。席数が足りずテント席を設置

  • 9月

    • 新5号館が竣工。四年制になることを想定して、美術科教員らが基本設計に参加し、大きな作品の制作や展示にも対応できるホール、自然光を採り入れた実習室など、美術教育に取り組むに相応しい建物となった。
    • ・隣接地の購入交渉がまとまるも、直前に学内で反対運動が起こる。四年制大学設置認可の文部省現地審査を直前に控えていたため、学内に対立が起きている印象を与えるのを避けようと、計画を撤回、購入を断念した。
  • 10月

    • ・部落問題研究会を開催。紫峰荘(委託寮)で部落差別事件が発生したことを契機に、部落問題について教職員と学生との話し合いや教職員の研修を行い、次年度からの同和教育講座の設置を提案する。
    • ・文部省私立大学審議会による四年制大学開設のための現地調査が実施された。
  • 12月25日

    • ・京都精華大学美術学部の設置が認可される。短大開設時からの悲願の成就に、学内は喜びの声に包まれた。
      深作光貞学長は「短大初期の卒業生の中には、かつて"四推会(四年制推進会)"の熱心なメンバーだった方々もいます。あの時は諸事情のため君たちの運動に応えることができませんでしたが、それ以来われわれ教職員はたゆまぬ努力と苦心と調査をかさね、政令指定都市という制約のある京都の地に例外的認可をとりつけ、ついに本年ようやく宿願をはたしたのです。」とその喜びを語った。(『木野通信』第8号)︎)
      美術学部について、1年次と3年次の同時開設も認可された。
      認可に伴い、大学および学部名称を京都精華大学美術学部と京都精華大学短期大学部英語英文科に変更。京都の私立大学で最初の美術学部が誕生することとなった。
  • 1979年 1月

    • ・京都精華大学美術学部の募集開始。入学定員は造形学科60名、デザイン学科60名。1年次入学生と3年次入学生の募集を同時に行った。
  • 3月

    • 本館増築が竣工。四年制開学に備えての増築で、2階建てから3階建てになり、事務局だけでなく、教室も新たに造られた。

1979年度(昭和54年度)

  • 1979年 4月

    • ・京都精華大学美術学部を開設。美術学部は造形学科とデザイン学科の2学科構成で、造形学科に洋画、日本画、立体造形の3専門分野を、デザイン学科にデザイン、マンガ、染織の3専門分野を設置した。入学定員は合計120名だったが、入学者数は1年次生319名、3年次生が158名となった。
    • ・美術学部開設にあたっては、学生がジャンルを横断して美術の全体像を把握したうえで、自分の専門とする分野を見出し、時代を切り開く表現を確立することを方針とした。そのため、1年次は共通基礎科目群〈描写表現、色彩表現、立体表現〉を全員必修とし、2年次から各6専門分野で、基礎科目から専門科目へ移行する実習科目群を履修するというカリキュラムが組まれた。同時に「美術」中学1級、高校2級教育免許状授与の所要資格の認定も受けた。美術学部長に芝田耕(美術学部教員)が就任。
    • ・美術学部開設に伴い、短期大学美術科の学生募集を停止した。
    • ・第1回京都精華大学入学式ならびに第12回京都精華大学短期大学部入学式が国立京都国際会館で開催される。深作光貞学長の挨拶に続き、梅原猛・京都市立芸術大学学長の記念講演が行われた。
    • ・「京都の伝統工芸講座」開講。伝統産業、工芸作家・職人、デザイナー等、ものづくりの現場で活躍する方々を講師に迎え、開催する講座。四年制美術学部開設の目玉となった「学外実習」に連動しており、体験実習前にものづくりの姿勢を学ぶという意味合いはもちろん、多くの学生が京都ならではの伝統産業に触れることができる絶好の学習機会となった。この講座は現在も「京都の伝統美術工芸講座」として続いており、広く市民にも一般公開している。
  • 10月

    • ・1977年5月より給与検討委員会が討議を行ってきた結果が「答申書」として深作光貞学長あてに提出された。内容は、①5年後をめどに教職員年齢給と用務員給を一本化する、②定年制度を明確化する、③諸手当・賃金カーブ・非常勤給については討議機会を別途設ける、というもの。
    • ・京都精華短期大学創立10周年ならびに京都精華大学開学記念祭開催。本来は前年の1978年が創立10周年記念にあたるが、創立以来の熱烈な願望であった美術科を四年制へという計画を実現すべく総力をあげているときだったため、四年制認可を取ることこそ10周年最大の事業と考え、翌年に記念事業を延期。79年度の開催となった。
    • ・10月31日から11月4日にかけて行われる木野祭の中で、特に11月3日を「京都精華短期大学創立10周年・京都精華大学開学記念祭」と定め、記念行事が行われた。記念イベントとして、喜納昌吉とチャンプルーズによる演奏、「1920年代ヨーロッパの政治・労働運動ポスター展」、映画「モンゴル~人とゲルと動物たち~」の上映が行われた。
    • ・創立10周年記念事業として、①1億円の奨学金ファンドの確立、②標本・資料収集のための資金確保が提案された。
    • ・深作光貞学長は『木野通信』特集号(第8号)で「精華は、精華を信愛する人びとの力で、今日を築きました。精華の将来も、いかに精華を愛し信じるかに、かかっているでしょう」と述べた。また、岡本清一元学長は、同じ『木野通信』特集号でこの10年を振り返って「われわれの大学では、過去十年をかけて、ほぼ完全に大学貴族の発生の根を切断することに成功しました。ここでは学長も理事長も特別の人ではありませんし、その永続を避ける風が定着しました」と評価した。
    • ・美術学部生によって本館前に自称「精華大学10周年記念祭モニュメント」が建てられた。ロシア・アヴァンギャルドの代表的作家・ウラジーミル・タトリンの「第三インターナショナル記念塔」の縮尺模型だった。
  • 11月

    • ・学生主催の「精美展」が開催される。

1980年度(昭和55年度)

  • 1980年 4月

    • ・深作光貞学長が三選、学長に就任。
    • 学外実習制度がスタート。京都の伝統産業・工芸に資する美術教育を掲げた四年制美術学部開設の目玉となったプログラムで、美術学部4年生を対象に、京都の伝統産業・工芸の現場で2週間程度の体験実習を行うもの。
      前年4月に開講した京都の伝統工芸講座と連動するもので、伝統工芸講座で基礎知識を学び、この学外実習で実践的な技術を体験するという流れになっている。4年生になった3年次入学生を対象に実施され、75人が19カ所で実習を行った。
  • 5月

    • ・宮本正清理事長が退任。
  • 6月

    • 福井勇(美術学部教員)が理事長に就任。福井は1968年に短期大学美術科に赴任して以来、洋画の教員として教鞭を執った。京都精華短期大学の美術科開設に伊谷賢蔵と共に尽力した人物で、1969年より理事に就任。
  • 9月

    • ・医務室棟(のちに「暁星館」)が竣工。
    • ・四年制の開学後、美術学部学生と短期大学英語英文科が一堂に会した学生総会が初めて開催され、新たな自治会規約が決定される。
      あわせて、自治会の下部組織だった学友会の独立と、「新歓の意味を持った正式な学生主催行事」として五月祭を開催することが決まった。
  • 10月

    • ・深作光貞学長が任期途中で辞任。
  • 11月

    • 中原佑介(江戸頌昌/美術学部教員)が学長に就任。中原は美術評論家で、1979年、美術学部開学時に教員になり、美術史などを担当。任期は前任者である深作光貞の任期の1983年3月まで。
    • ・中国のマンガ家一行6名が本学を訪問。日本漫画家協会の横山隆一氏や赤塚不二夫氏なども同行。福井勇理事長が、来学を記念して「鳥獣戯画」の複製巻子本、『宋元の美術』、『伊谷賢臧画集』を贈呈した。
  • 1981年 1月

    • ・隣接土地(3338㎡)を購入。

1981年度(昭和56年度)

  • 1981年 4月

    • ・英語英文科にコア・セミナー開講。これまでの6コースを廃止し、教員が主体的に設定したテーマをもとに少数のセミナーを設置、2年生を対象に週に1~2回開講するもの。凝集教育の徹底と広い選択肢を持つ科目群を用意して、集中と選択という考えのもとに生み出された。一般教育科目の小クラス制も同時に実施する。
    • ・美術学部の共通基礎科目を廃止。入学時より6専門分野別実習課程を履修。
  • 6月

    • ・初めての「五月祭」開催。五月祭のルーツは、学生有志が開催していた「NO RAIN CONCERT」。1970年代後半、学生の交流施設として使用されていたバラックの建物(真っ黒に塗られていたため「黒ボックス」と呼ばれていた)が大学によって取り壊されることになったため、一部の学生がこの建物を燃やし、その炎を囲んでのライブを決行。以降、自治会が資金的援助をするかたちで、毎年、「NO RAIN CONCERT」として開催されるようになった。しかし、大学が公式行事として認めたわけではなく、教員からクレームも出ていたため、大学側とのきちんとした交渉の必要性を感じた自治会が1980年の学生総会で、学生の公式行事に正式決定。翌年に第1回五月祭が開催された。準備が間に合わず、開催は6月になったが、「NO RAIN CONCERT vol.3」と題して、シーナ&ロケッツ、BLOODY MARY、ZIG ZAGなどがライブ。盛り上がりを見せた。
  • 9月

    • 7号館が竣工。美術学部洋画専門分野と立体造形専門分野の実習棟として建設された。1階の立体造形実習室には、さまざまな素材を使った作品制作に対応できる設備が備えられ、上階の洋画実習室には、北面からの光を最大限に採り入れるなど、アトリエに相応しい建物となっている。この7号館は現在も健在。
      7号館竣工記念行事として日本を代表する版画家である黒崎彰の版画展が開催された。黒崎は後に本学美術学部に版画専門分野が開設された際、専任教員になった。
  • 11月

    • ・学内で呼称差別問題が起きる。在日韓国人非常勤講師の氏名を職員が学内放送で日本語読みのうえ「君」づけでアナウンスしたことに対して、民族差別だとして本人が抗議。教員や学生、支援団体なども加わり、抗議運動が展開された。非常勤講師と職員の間には個人的な交流があったことなどから、学内の教職員の間には当初、この問題を「差別」と捉えない意見もあり、そのことがさらなる抗議、糾弾を生むことになった。
      長時間にわたる全学集会など、さまざまな話し合いが行われ、職員による謝罪もあったが、その後も抗議は断続的に行われ、2年以上にわたって議論が続いた。最後まで意見の対立も見られたが、多くの教職員、学生がこの重い課題を自分ごとと捉え、真摯に取り組んだ。
  • 1982年 3月

    • ・隣接土地(3074㎡)を購入。

1982年度(昭和57年度)

  • 4月

    • ・京都精華大学短期大学部美術科および同専攻科廃止。
    • ・日本で初めて『点字仏和辞典』を制作。フランス語を教えていた稲浦嘉潁(美術学部教員)が視覚障がいのある学生のために企画したもので、京都大学点字訳サークルの協力により完成した。なお、原版は、必要な人が広く利用できるよう、社会福祉法人日本ライトハウス盲人情報文化センターの図書館に寄贈され、全国の視覚障がい学生のフランス語履修に大きな貢献をすることになった。
  • 1983年 3月

    • ・京都市美術館で第14回卒業制作展を開催。美術学部最初の卒業制作展となった。卒業生(79年度生)全員が作品を出品した。
    • ・中原佑介(江戸頌昌)が任期満了により学長を退任。

1983年度(昭和58年度)

  • 1983年 4月

    • 笠原芳光(一般教育教員)が学長に就任。任期は1986年3月まで。笠原は1969年に短期大学英語英文科の教員になり、「比較宗教史」「日本文学論」などの講義を担当。宗教思想・近代日本思想・キリスト教史を専門とした。
    • ・理事会が今後の財政と施設整備計画の方針を決定。
      まず、1984年度に学費を改定し、大幅な値上げをすることを決定。美術学部初年度学費はこれまでの84万5000円から、107万5000円と、23万円の値上げ。短期大学部英語英文科は、初年度56万5000円から、66万5000円と10万円の値上げになる。
      この時期、財政的困難が半ば慢性化していたことに加え、本格的な施設整備計画が始まろうとしていた。学生の教育環境を向上させ、全学の四年制化という目的を果たすためには、足元の財政基盤から固める必要があるという判断だった。
      また、あわせて1985年度からの物価スライド制度〈物価上昇率に即して学費を値上げ、さらに環境整備費5%を上乗せ〉を導入することが決定された。
      隣接土地の購入を積極的に推進すること、将来の支出に備えた資金引当金を確保すること、図書館の書庫増設や構内整備の方針などもあわせて確認された。
    • ・理事・部長研修制度を実施。
  • 12月

    • ・社団法人日本私立大学連盟に加盟。

1974年度のできごと

戦後初めて経済がマイナス成長に。物価が高騰し「狂乱物価」と呼ばれた。原子力船「むつ」出港抗議デモ。東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件。日本赤軍によるハーグのフランス大使館占拠事件が発生。佐藤栄作前首相にノーベル平和賞。「モナ・リザ展」開催。宝塚歌劇「ベルサイユのばら」初演。75年3月、山陽新幹線が博多まで開通。

深作光貞

深作光貞は文化人類学者としての活動のほかに、ベ平連の中心メンバー、歌人としても知られる。アジアの地域研究からファッションまで幅広い分野で著書がある。他大学へ移った後、最晩年の1年間、本学に戻り人文学部教員を務めた。1991年没。

景山喜巳

景山喜巳は1969年に入職。事務局長のあと、93年からは理事も務め、財務担当として力を発揮。大学の財政危機の克服とその後の発展に大きな役割を果たした。2004年に退職し、2006年まで嘱託職員。17年没。

1975年度のできごと

アメリカが撤退しサイゴン陥落、ベトナム戦争が終結する。日本リクルートセンターが『就職情報』創刊。沖縄国際海洋博覧会開催。日本赤軍がクアラルンプールでアメリカ大使館等を占拠。フランスで第1回先進国首脳会議(サミット)開催、三木首相が参加。76年1月、鹿児島で日本初の五つ子が誕生。ロッキード事件の国会証人喚問、強制捜査が始まる。

給与制度が改定

給与制度は1969年5月に事務局会議が教職員間格差の是正を盛り込んだ要求書を提出。その後、教員職員公開討論会が開催されるなど、話し合いが行われ、1970年にまず、①教授給、②助教授給、③講師・助手・事務職員給という3段階に変更された。

当時の朽木学舎は中学校校舎の面影そのままだった

伊谷賢蔵が亡くなった後、その功績を讃える目的で本学が『伊谷賢蔵画集』を出版。その画集の収益が、伊谷家のご厚意により、全て本学に帰属することになった。使途を検討していたところ、偶然、見つけたのが廃校になっていた朽木村の朽木中学校西分校だった。山が好きだった伊谷にふさわしい、と考え、朽木村と交渉を開始。交渉は一旦、暗礁に乗り上げたが、深作光貞学長が就任して、交渉を再開。朽木学者を本学の施設とすることができた。

1976年度のできごと

南アフリカ共和国でアパルトヘイトに抗議するソウェト蜂起。ロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕・起訴され、小佐野賢治の「記憶にございません」が流行語に。ベトナムが統一され、ベトナム社会主義共和国成立。中国では毛沢東が死去し文化大革命終結。カンボジアではポル・ポトによる大量虐殺が横行。東京・大阪で青酸コーラ無差別殺人事件発生。

設置申請を断念することはなく

美術学部設置申請は却下されたが、本学には私立の四年制美術大学の設置を求める声が、高校生、高校の美術教員、美術団体などから多数届けられており、そのことが支えになった。

1977年度のできごと

大学入試センター発足。アップルよりパーソナルコンピュータ「アップルⅡ」発売。気象衛星「ひまわり」打ち上げ。王貞治が通算756号のホームラン世界記録達成。日本赤軍が日航機をハイジャック、ダッカの国際空港で同志の釈放と身代金要求。長崎バスジャック事件。キャンディーズが解散宣言、「普通の女の子に戻りたい」が流行語に。

給与検討委員会が設置

すでに教職員の給与は年齢給に一本化され、平等は実現していたが、用務員についてはいまだ別の給与体系だったこと、また、定年制や手当などについても整備されていないことなどから、さらに検討をすることになった。1979年10月まで、約30回に及ぶ会合を重ねる。

再々度提出

四年制申請の中心的役割を担った潮隆雄(元・美術学部教員)によると、当時、本学の申請を受けて、文部省に本学の問題点を洗い出すための専門委員会が設けられた。そのため、深作学長や潮らが専門委員の自宅や個展会場などに出かけ、直接、開学の必要性を説いたという。(「京都精華大学40年史」より)

第1次審査を通過

文部省の「新学部設置」はこの年より、2年審査に制度変更されたため、その後も、審査のための準備が続いた。

1978年度のできごと

管制塔占拠事件で開港延期となっていた成田空港が開港。北京で日中平和友好条約に調印後、福田首相が靖国神社参拝。中国で鄧小平による「改革開放」政策が開始。アメリカ映画『スターウォーズ』公開。サザンオールスターズがデビュー。79年1月、国公立大学で初の共通一次試験実施。イラン革命でホメイニが政権掌握。第2次オイルショックが起こる。

検討が本格化

四年制開学に向けて、78年4月から1年の間に行われた会議の回数は、教職員合同会議10回、全学教授会15回、美術科教授会45回、その他小会議をあわせると、膨大な数にのぼった。

学外実習

「学外実習」は、学生に伝統産業への入り口を開くべく、京都に数多くある伝統工芸や産業の現場で、直接指導を受けながら学ぶカリキュラムとして1980年にスタート。2005年度には文部科学省「特色ある大学教育支援プログラム」(特色GP)にも採択された。現在では「京都の伝統産業実習」として、芸術学部の重要なカリキュラムで継続されている。

新5号館は鉄筋コンクリート造、地下1階付2階建。延べ床面積2540㎡。

購入を断念

この土地は、現在、情報館や悠々館などが建つ土地で、後年になって改めて購入した。

その喜びを語った

深作学長は、四年制にかける覚悟について、「(前略)昨年中に創立十周年記念をするべきでしたが、何しろ創立以来の熱烈な願望であった美術科を四年制へ!という計画を実現すべく総力をあげている時だったため、四年制認可をとることこそ十周年の最大の事業であると考え、今年に延期したわけです。「もし認可がとれなかったら十周年はしないのか」という声も、その時ありました。しかし、絶対成功させる。成功させなければ……と考えていましたので、確信をもって延期したのです。」と語っていた。(『木野通信』第8号)

本館は460㎡を増築し、延べ床面積1903㎡となった。

1979年度のできごと

アメリカのスリーマイル島原子力発電所放射能漏れ事故が深刻化。東京サミット開催。サッチャーがイギリス初の女性首相に。フセインがイラク大統領就任。韓国で全斗煥らによるクーデター。年末にソ連がアフガニスタン侵攻開始。日本電気がパソコン「PC‐8001」発表。ソニー「ウォークマン」発売。インベーダーゲームが大流行。

梅原猛

哲学者。京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター初代所長等を歴任。文学・歴史・宗教等を包括して日本文化の深層を解明する論考は「梅原日本学」と呼ばれた。著書に『仏教の思想』、『隠された十字架―法隆寺論』等多数。

2018年度は、香老舗松榮堂主人・畑 正高氏による「都と香り」、株式会社岡墨光堂代表・岡岩太郎氏の「伝統技術が支える表具と文化財」など、前・後期各15回、全30講座を開講予定。

「第三インターナショナル記念塔」建立に関し、美術学部3年の加藤正寛は、『木野通信』特集号で「精華短大創立十周年、同じく四年制設立を記念し、短大時代を通じて存在した様々な諸先輩方の建設的行動の全てを肯定する立場から、後輩に対する積極的アプローチ、また我々自身の美術科学生としての自覚、更に一人のクリエーターであるための各自の自己形成を目的とする」とコンセプトを語った。

1980年度のできごと

モスクワオリンピックに日本、アメリカなど不参加。イラン・イラク戦争が勃発。予備校生金属バット殺人事件など家庭内暴力、校内暴力が深刻化。任天堂が初の携帯ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」発売。ルービックキューブが日本上陸しブームに。黒澤明監督『影武者』がカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞。山口百恵が引退、3月にはピンクレディー解散。

学外実習制度がスタート

学外実習の受け入れ先開拓のために、美術学部長の橋田二朗、理事の杉本修一、教員の潮隆雄の3人が50カ所以上の工房、事業所を回ったという。

福井勇

福井勇は京都を代表する画家。二科展、京都市美術展など数々の賞に入選をはたし、戦後は行動美術協会の結成に参加。本学で理事長を務めた後、関西美術院理事長を務め、京都府文化功労賞を受賞した。1988年没。

中原佑介

中原佑介は、京大で理論物理学を学んでいたが、1950年代に美術評論に転身。日本の美術評論をリードする存在に。国際美術展「東京ビエンナーレ」のコミッショナー、ベネチア・ビエンナーレのコミッショナー、水戸芸術館美術部門芸術総監督を務めた。本学を退職した後、兵庫県立美術館長、国際美術評論家連盟会長に就任。2011年没。

1981年度のできごと

神戸でポートピア開催。敦賀発電所で大量の放射能漏れ事故。パリ人肉事件が発生。「ライシャワー発言」で非核三原則をめぐる論議高まる。IBMがマイクロソフトのDOS搭載パーソナルコンピュータ発表。福井謙一・京都大学教授にノーベル化学賞。『オレたちひょうきん族』放送開始。2月、ホテルニュージャパン火災で33人死亡。大気汚染被害で川崎公害訴訟が始まる。

第1回五月祭のパンフレット

五月祭はこの年以降、毎年、行われ、一時は「精華には学園祭が2回ある」というのが大学の売り文句にまでなっていた。2006年には学生と大学の開催条件が折り合わず、中止になった。その後は断続的にかたちを変えて行われている。

7号館は鉄筋コンクリート造3階建、延べ床面積3556㎡。

1982年度のできごと

フォークランド紛争勃発。世界で初めてCDが製造される。日本では五百円硬貨、ペットボトル、カード式公衆電話が登場。文部省が高校教科書検定で「侵略」を「進出」に書き換え報道で論議に。東北新幹線、上越新幹線開業。アメリカがスペースシャトルの有人飛行に成功。83年1月、横浜で中学生らによるホームレス襲撃事件が起こる。

1983年度のできごと

東京ディズニーランド開園。ソ連軍による大韓航空機撃墜事件が発生。ロッキード事件裁判第一審で田中角栄元首相に実刑判決。東北大で日本初の体外受精児誕生。任天堂「ファミリーコンピュータ」発売。ペットボトル入り飲料水の販売開始。ワープロが普及し始めるなか、84年1月、アップルコンピュータが「マッキントッシュ」発表。

笠原芳光

笠原芳光は宗教学者として、文芸評論や哲学、現代思想まで、幅広いフィールドで評論活動を行った。また、吉本隆明氏をはじめ、分野を横断した各界の著名人と幅広い交友があり、深い教養と豊富な人脈を駆使してさまざまなプロジェクトを主導し、成長期の本学の顔となった。著書に『宗教の現在』『宗教の森』『日本人のイエス観』など多数。