History大学の歴史

1969-1973

揺籃の時代、
自由自治をめぐる試行錯誤

自由自治を掲げた京都精華短期大学は、権威主義や上下関係をなくし、新しい時代に相応しい教育を模索した。運営においても、教員・職員・学生すべてが平等な権利を有する、徹底して民主的な大学を目指し、前例のない制度を整えていった。だが、その理想主義ゆえに大学運営は難しく、財政基盤の弱さもあって混乱が生じる。1971年、経営危機が表面化したのをきっかけに岡本学長は不信任を突きつけられ、辞任。開学4年目にして、深刻な危機に陥った。激しい議論と試行錯誤が繰り返された。経営を立て直し、大学として自立するために、苦闘の時代へ突入してゆく。

1969年度(昭和44年度)

  • 1969年 4月

    • ・美術科に染織コース開設。美術科は、絵画、デザイン、染織の3コースとなる。これに伴って、美術科の入学定員は50名から100名に増員される。
    • ・学生増員に伴い、講義棟の3号館、実習棟の4号館、5号館、6号館、幡枝教職員住宅、学生寮の幡枝寮、市原寮が竣工。いずれも簡素な建物で、4号館、5号館はプレハブ造りだった。
    • ・2年目の入学式は、任意参加であった在学生の約8割が参列して新入生を歓迎した。全員による合唱、教職員による飛び入り芸なども披露され、終始笑いとユーモアに包まれた、本学の校風をあらわすものとなった。
    • ・食堂運営が委託から直営に変更される。
  • 5月

    • ・事務局職員会議が、教職員間にある賃金格差の是正を盛り込んだ要求書を理事会に提出。大学全体の給与水準が他大学や民間企業に比べて著しく低かった状況の中で、教授・助教授・講師・助手・職員の間に給与格差をつけることが「教職員の平等」に反しているのではないかという疑問を問いかけるものだった。
  • 6月

    • ・教職員間にある身分的格差や賃金格差を問題とした教員職員公開討論会を開催する。事務局職員の田所伴樹は「給与をめぐる議論のようでいて、実は人間の在り方に関する議論だった」とその感想を述べている。
    • ・政府・自民党が大学紛争対策として、通常国会に「大学の運営に関する臨時措置法案」を提出したのを受け、精華の教職員・学生を含めた約300名が市内で同法案に対する抗議・反対デモを行った。
      同法案が大学の自治への国家権力の介入であり、大学の独自の解決努力を阻害するとの見解に立つもので、当時、大学をめぐって起きていた問題を自らの問題として捉え、全学的な討論を行ってきたことの延長線上で起きた行動だった。
  • 8月

    • ・「大学の運営に関する臨時措置法案」が国会で成立したことを受け、「京都精華短期大学教職員総会」の名において、抗議声明を出した。
  • 10月

    • ・世界的に大学闘争が激化するなか、本学でも、学生による教室バリケード封鎖が起こる。本館屋上から「自由自治は幻想である」と大書された白い垂れ幕が下げられ、学生は本館の一室にバリケードを築いて立てこもった。封鎖は1カ月続いたが、自らも学生運動経験のある教職員たちが真摯に説得を続けた結果、自主的に解除された。
  • 11月

    • ・『木野通信』創刊号発行。一般社会を配布対象とする情報紙として発刊。創刊号はアンコール・ワットのレリーフ(複製)がカンボジアから寄贈されたことを伝える記事や「大学・解体のなかの創造」をテーマとする座談会等を掲載。
    • ・本学の美術教育(石膏デッサンから始める伝統的な教育方法など)に反対する絵画コースの学生たちが「スパゲッティ宣言」と称して、自主カリキュラムによる「スパゲッティクラス」の設置を宣言。自主カリキュラムによる創作、研究活動を要求する。ちなみに「スパゲッティ」には、「長いものに巻かれるな、食べてしまえ」という意味が込められていたともいわれている。
  • 12月

    • ・柳島彦作理事の辞任に伴い、事務局職員の杉本修一が選挙で理事に選出され、就任。当初、新理事は岡本清一学長に一任されたが、岡本学長は選挙を提案して実行。杉本が選ばれた。これがその後の理事公選制のきっかけになる。
  • 1970年 1月

    • ・英語英文科ならびに美術科の専攻科設置届が受理される。収容定員は英語英文科20名、美術科30名、修業年限1年。また、学生定員変更届も受理され、各科とも入学定員が100名から150名に増加した。
  • 2月

    • ・第1回美術科展が開催された。京都市立美術館に卒業制作および在学生作品421点が展示され、本学の美術教育の成果を広く社会にアピールする機会となった。この美術展は現在まで毎年、開催されている。
  • 3月

    • ・第1回卒業歓送会が行われ、卒業生185名の卒業が祝われた。会場は3号館大講義室。この歓送会は、旧来の「卒業式」とは違う新しいかたちで行われた。学校側からは、岡本清一学長が「友愛と人間尊重の戦士として、諸君を社会におくる」という熱いメッセージを贈ったが、在学生代表の送辞も、卒業生代表の答辞もなかった。そのかわり、発言したい人がいれば、誰でも発言してよく、やりたいことがあったら何をやってもいいというかたちを取り、卒業生、在学生、教職員の区別なく次々とマイクの前に立った。本学の自由自治を批判する者、歌を歌う者もおり、また、飛び入りの保護者が人生訓を語る一幕もあった。本学での創造的な2年間を共に過ごした者同士の最後の人間的交流の機会としてパーティー形式で行われた。

      花を手に『友よ』を歌いながら卒業生を見送る教員たち

    • 卒業証書もユニークだった。岡本清一学長のアイデアで牛革製。デザインは美術科の教員だった高島寛が担当し、後輩の学生たちが一枚一枚シルクスクリーンで印刷した。「公印」は押されず、学長と主任教授のサインだけが記された。
    • ・パーティーのフィナーレでは、卒業生・保護者・在学生・教職員が共に岡林信康の『友よ』を大合唱。卒業生も在学生も教職員も会場に飾られた花を一本ずつ手に取り、『友よ』を歌いながら退場していく。岡本学長がその一人ひとりに手をふって見送った。
    • ・『木野評論』創刊号発行。学術論文のみを掲載する一般的な「大学紀要」のスタイルではなく、論文の形式をとらない芸術作品や、既成の学問、芸術からは疎外されていた新しいジャンルなども含み、京都精華短期大学の知的活動の水準を示すことを目指すものだった。以降毎年発行され、1998年3月発行の通巻29号より書店での市販化が実現。2006年に『KINO』にリニューアルし、2008年まで発行した。

1970年度(昭和45年度)

  • 1970年 4月

    • ・美術科デザインコースをヴィジュアル・デザインクラスとクリエイティヴ・デザインクラスに分離。ヴィジュアル・デザインクラス入学定員数60名、クリエイティヴ・デザインクラス入学定員数40名。定員増員を契機に、実用性を深める、芸術性を深める、というふたつの方向性を打ち出したもので、実技課程は入学時から2クラスに分かれて行われた。
    • ・英語英文科ならびに美術科の専攻科が開設される。初年度入学者は計38名。
    • ・前年に提案されていた賃金格差是正の給与制度が改定され、施行された。かつては4段階だったが、①教授給、②助教授給、③講師・助手・事務職員給という3段階に変更された。
    • ・この年度より学校法人京都精華学園の財政問題が顕在化。短期大学(本学)の経営悪化が主な原因だった。もともと、開設時に充分な設置経費が準備されていなかったことに加え、学生募集が予想を下回ったため、開学3年目にして資金不足に。収入の3倍を超える負債を抱え、利息の支払いにも困窮、給料遅配の可能性も予想される状態に陥った。高等学校単体では経営が順調だったことから、高校から本学に対して経営責任を問う声が日増しに強くなっていった。
  • 5月

    • ・事務局長の学長任命制が廃止され、職員公選制に。これも岡本清一学長の考えによるものだった。岡本は、事務局長として相応しいかどうかは、日頃一緒に仕事をしている職員が判断するのが適切であると説いた。
      選挙によって、事務局職員の田所伴樹が公選制初の事務局長に就任する。
  • 9月

    • ・「English House(イングリッシュ・ハウス)」開設。英語教育の一環として実用英語の学習のために設けられた施設で、入室者は英語で話すことを要求された。また、この施設では、外国人留学生を囲む集いや映画会、英会話ゼミなども開催された。
  • 12月

    • ・京都精華短期大学教職員組合が結成される。4月以来の経営危機顕在化に危機感を持った教職員によって結成された。結成当初の組合員数は24名。
  • 1971年 1月

    • ・英語英文科ならびに美術科の入学定員変更届が受理される。それぞれ100名から150名となる。
  • 2月

    • ・岡本清一学長が3年の任期満了を迎えるにあたり、次期学長選挙を実施することが決定。学長選挙規程が作成された。規程には、専任教職員は全て等しく選挙権、被選挙権を有すること、有権者の過半数、学生の過半数によって、不信任が成立するという画期的な内容が盛り込まれた。これも、大学内部にある身分制を一掃しようとした岡本学長の発案だった。
  • 3月

    • ・新しい規程のもとで学長選挙を実施。有効投票数41票(有権者数59名)中、34票を獲得した岡本清一が、学長に再選。
    • ・金融機関および、私学振興財団の融資を取り付けるために、財政再建五カ年計画案の作成を開始。ほとんどの金融機関に融資を断られるなか、京都銀行幹部から「再建策を考え、私学振興財団の融資を実現すれば、金融機関の融資をまとめる」との返答をもらったことで、再建計画への取り組みを開始。
    • ・開学以来、学校法人京都精華学園の理事長を務めてきた髙屋定由が理事長を退任。

1971年度(昭和46年度)

  • 1971年 4月

    • ・一般教育課程において複合講座が開始された。狭い専門の枠を超えた総合的人間学の必要性と、現実との接点を回復する心要性から生まれた講座で、科目を超えて現代的課題にアプローチし、知識を活用できる力を養うことを目的に、討論やフィールドワークなど、双方向的な教育手法が取り入れられた。初年度は、文化人類学と心理学による「女性論」、政治学、倫理学、社会学による「現代とは何か」が開講された。
    • ・短大側理事の公選制が制度化される。学校法人京都精華学園の理事はそれまで理事会が選任していたが、理事の人選にも、教職員の意思が反映されるべきという岡本清一学長の提案で、公選制が導入された。
      教職員の中から理事2名(2号理事)を教職員が選出し、2号理事と学長が次期理事候補名簿を作成して、現・理事会に提案するというもの。経営と教学のバランスや政策の継続性にも配慮してこの方式になった。
  • 5月

    • ・財政再建五カ年計画を正式に策定。骨子は①国際文化コースをつくることによる学生増、②学費改定(英語英文科は5万円、美術科は8万円のアップ)、③新館(現在の明窓館)の建築、④経費の節減と寄付金の募集、⑤公的資金の導入ならびに民間金融機関への要請など。
      この再建案をもとに、金融機関との融資交渉を開始。また、融資の条件となっている公的資金導入に向けて、日本私学振興財団との折衝に全力を尽くすことになった。
      しかし、この再建案に対しては、高校、短大内でも反対の声が高まった。
  • 7月

    • 橋本重郎(一般教育教員)が理事長に就任。橋本は1968年の開学時から本学の一般教育科目で教鞭を執ってきた教員。キリスト教系短期大学で理事長を経験したことがあり、岡本清一学長が推挙した。
    • ・大学運営委員会設置。大学理事会の実質的機能停止に伴い、それを代行する機関として置かれた。
  • 9月

    • ・英語英文科に国際文化コースを新設することを決定。言語だけでなく、変化が著しい国際情勢を把握できる人材の養成を図る。これによって、英語英文科は英米文学コース、貿易英語コース、セクレタリーコース、ガイドコース、国際文化コースの5コースの構成となり、定員は150名に。
    • ・日本文化研究の第一人者であるドナルド・キーン・コロンビア大学教授が、英語英文科講演会で「日本文化論─英語と日本語の問題をめぐって」と題して講演。200余名の高校の教諭を含む約400名の聴衆が集まり、日本文化の中で何が日本的であるか、どういう立場から日本文化を語るべきかをテーマにした講義に聴き入った。
    • ・京都精華女子高等学校は、学園の財政悪化は短大に原因があるとし、教職員全員の署名をもって京都精華短期大学との法人分離を宣言。短大が提示した再建案についても、「根底から相反する」と反対し、別法人にすることが唯一の解決策であるとした。
      学園理事会は、京都精華女子高等学校の宣言趣旨を受け入れざるを得ず、「可及的速やかに法人分離を行う」ことを議決。当面は、高等学校、短期大学双方が独立採算で運営する方針も確認された。
  • 12月

    • ・財政の悪化を理由に、京都精華短期大学教職員組合による、学長ならびに学内選出理事の退陣署名活動が始まり、署名が過半数を超える。
    • ・これを受けて、岡本清一学長が辞任を表明。手続きに不備があったとする意見もあり、岡本学長に辞任を思いとどまるよう説得する者もいたが、岡本は頑として受け付けなかった。「過半数で不信任」の条項は岡本が主導して学長選挙規程に定めたものであり、岡本は自らの信念を実行に移した。
    • ・学生の一部が一連の問題を批判して事務局を封鎖。また、岡本学長の不信任に反対するグループが新たな教職員組合をつくる動きを見せるなど、学内は混乱をきわめた。
  • 1972年 1月

    • 宮本正清(一般教育教員)が学長に就任。任期は1974年3月(前任者である岡本清一学長の任期)まで。宮本は1969年に赴任、文学・フランス語を担当した。
    • ・岡本清一学長辞任に続いて学内選出理事2名が辞任。田所伴樹事務局長も辞任。岡本学長の辞任を受けた、自発的な辞任だった。
    • ・大学運営委員会が解体され、経営の責任は学長および学内理事が負うことになる。
  • 2月

    • ・日本私学振興財団から、1億2千万円の融資が決定する。当時の財団の担当常務理事は、上野直蔵・同志社大学元学長(総長・理事長も歴任)で、岡本清一学長とは親交があり、理事・職員の中にも同志社大学在学時にお世話になっていた者が数多くいた。融資実現も、本学への理解があった上野元学長の尽力によるところが大きかった。
    • ・日本私学振興財団の融資によって、他の金融機関からの支援も進み始め、深刻な経営危機を脱する見通しが立つ。この再建策を打ち出した岡本清一学長と当時の大学選出理事らが不信任を突きつけられ辞任したあとに、その再建策によって救われるという結果になった。
  • 3月

    • ・事務局長が学長任命制に戻り、禪野誠之助が事務局長に就任。宮本正清学長は事務局に対して、事務局長の選挙を要請したが、事務局が岡本清一元学長の不信任に抗議して、選挙を拒否、やむを得ず、任命することになった。

1972年度(昭和47年度)

  • 1972年 4月

    • ・英語英文科に国際文化コースが新設される。言語だけでなく、英語圏諸国の文化・思想、歴史、社会などを研究することを目的とした。国際文化コースは、「政治・経済クラス」「文化・芸術クラス」「思想・社会クラス」の3つのクラスに分かれ、それぞれ、特別テーマを掲げて、世界の文化と現在を把握する。
      総学生数は英語英文科416名、美術科389名、専攻科26名となった。
  • 10月

    • 新館(現・明窓館)が竣工。本学にとってはこれまでにない大きな建物で、120席の読書室を持つ図書館、大教室、普通教室などが設けられた。なかでも、600名収容のホール型教室は、授業だけでなく、本学のさまざまなイベントに活用されることになった。
    • ・創立5周年記念行事が開催される。
    • ・在学生保護者による教育後援会が発足。大学の施設整備、備品購入、資料収集、出版などを支援し、教育懇談会を開催。『教育後援会ニュース』の発行も開始された(76年11月より現在まで毎年継続発行)。
  • 11月

    • ・自由に集まり話し合える空間を求める学生の声に応え、「English House(イングリッシュ・ハウス)」を学生ホールに転用することになった。英語英文科の学生に親しまれてきた「イングリッシユ・ハウス」は「イングリッシュ・ルーム」と名称を変えて、3号館に設置された。

1973年度(昭和48年度)

  • 1973年 4月

    • ・美術科に立体造形コースを開設した。経営状態が悪化するなか、反対意見も多かったが、多角的な視点を養うことの重要性と、将来の四年制化をにらんで、教職課程の科目から発展させるかたちで開設された。美術科は絵画、デザイン、染織、立体造形の4コースとなった。
    • ・デザインコースにマンガクラスが開設される。デザインコースのヴィジュアル・デザインクラスとクリエイティヴ・デザインクラスを廃し、デザイン・クラスに統合した。
      これによって、美術科の入学定員数は440名となった。
    • ・朝鮮語を第二外国語として設置。それまでのフランス語とならんで第二外国語は2教科となった。朝鮮語を第二外国語として置いたのは、短期大学では本学が初めてだった。また、朝鮮語の科目設置は、単に言語の技術的な指導だけでなく、日本と密接な関係を持つ朝鮮の文化に触れることで、日本の歴史や文化を捉え直す目的もあった。
    • ・事務局長の禪野誠之助が退任し、学長任命によって事務局長に川嵜顕が就任。
  • 10月

    • ・宮本正清学長の要請により、食堂部会計調査委員会が設置され、食堂部の会計を調査。結果、170万円の使途不明金が判明し、食堂の運営組織が改められた。
  • 1974年 1月

    • ・川嵜顕事務局長が退職。
  • 3月

    • ・宮本正清学長が退任。

1969年度のできごと

連続射殺事件容疑者・永山則夫逮捕。大学管理臨時措置法案成立。熊本水俣病の患者、家族がチッ素を相手取り訴訟提起。アメリカ「アポロ11号」が人類初の月面着陸。ウッドストックフェスティバル開催。佐藤首相の訪米抗議集会が行われる中、72年の沖縄返還を合意。70年3月、大阪万博が開幕。日本航空よど号ハイジャック事件発生、赤軍派が北朝鮮に亡命。

粗末なプレハブ造りだった4号館と旧5号館

3号館は鉄骨造2階建、延べ床面積665㎡。4号館、5号館はプレハブ造平屋建。6号館は鉄骨造2階建、延べ床面積862㎡。

大学の運営に関する臨時措置法案

大学の運営に関する臨時措置法は、1969年8月、当時の大学紛争、学生運動を抑え込むために制定された法律。文部大臣の介入が明記されており、大学の自治に反すると強い反発を受けたが、自民党が強行成立させた。

抗議声明

「大学の運営に関する臨時措置法案」に対する抗議声明全文
われわれはかねて大学運営臨時措置法案が大学の自治、ひいては学問・芸術の自由に対する国家権力の介入であるとして、これに反対してきた。
しかるにこのたびの国会において、政府・自民党が審議をつくさず、ルールを無視して、この法案の成立を強行したことに強く抗議する。
このような法律はいわゆる大学紛争を解決するどころか、かえって大学の研究と教育を破壊するものである。
われわれはこの法律に従うことなく、その撤廃のためにたたかう決意をここに表明する。
一九六九年八月八日
京都精華短期大学教職員総会

スパゲッティ宣言

わたくしたちは、本校美術科絵画コースにおける石膏デッサン、 裸婦デッサンを主とする伝統的な美術教育課程が本質的な造形能力を養う方法として最善であるかどうかを疑問に思う。そのような伝統的美術教育は、わたくしたちの真の創造力を弱体化するのみならず、世界をすなおに見る感受性を根本からゆがめてしまうものであると思わざるをえない。
(中略)本学においては西欧古典主義的価値観にもとづく伝統的アカデミズムではなく、デザイン等を含む広い 領域におよぶ新しいアカデミズムをわたくしたちの努力で形成することにより、わたくしたち自身及び後輩を伝統的美術教育以上に飛躍させることができると確信する。わたくしたちの改革的行動自体が新しい伝統をきずく第一歩となるはずである。わたくしたちは上記の事項を確認し、仮称『自主カリキュラム』でもって卒業までの三カ月間を十分に生かし、虚無感を脱して新たなる創造的生きがいを見い出そうと思う。
ここに京都精華短大美術科絵画コースにおける改革の第一歩がふみ出されたことを宣言する。

杉本修一

杉本修一は同志社大学時代の恩師だった岡本清一に誘われ、1968年10月から事務局職員に。理事、専務理事を経て、99年から2005年まで理事長。四年制への移行や人文学部開設、キャンパス整備計画で中心的役割を果たした。16年没。

卒業写真集もユニークな造本

卒業証書には以下のようなことばが記載されている。
〈あなたが京都精華短期大学において 友愛の精神を養い 本学所定の学科目のすべてを履修されたことを證し あなたの前途を祝福して この證書を贈る〉

1970年度のできごと

ザ・ビートルズ解散。政府の日米安全保障条約自動延長の声明に対し全国で反対統一行動、77万人が参加。東京で初めて光化学スモッグを確認、田子ノ浦港ではヘドロ公害が問題に。三島由紀夫が自衛隊東部方面総監部にて割腹自殺。マイカーの所持率が4世帯に1台となる。『8時だヨ! 全員集合』が大人気に。65歳以上人口が7%を超え高齢化社会へ突入。

職員公選制

事務局長公選制について、岡本は、事務局長が職員の選挙で選ばれれば、両者は主従関係になることなく、真の人間関係を築くことができる、また、職責上のみならず、事務局長が学長を本当の意味で補佐できるようになると、その意義を説いた。

田所伴樹

田所伴樹は学生時代、京都府学連委員長を務めるなど、学生運動の闘士として知られていたが、岡本清一に誘われて開学前に準備事務局に入職。開学後は、初の公選事務局長に選ばれ、理事、教務部長、就職部長などを歴任した。在職中の1997年に死去。

学長選挙規程

学長選挙規程主要条項
第1条 学長は選挙人の直接選挙によって選ばれる。
第2条 被選挙人は専任教職員または専任教職員五名以上の推薦のあるものとする。
第3条 学長の任期はその就任の日から三年とする。
第6条 選挙人は専任教職員とする。
第8条 選挙は有権者の過半数の投票をもって成立する。
第9条 当選人は有効投票数の過半数をもって確定する。過半数に達しない場合、または上位二名が同得票数の場合はひきつづき再投票によって確定する。
第13条 学生の当選人に対する不信任は開票後二カ月以内に学生数の過半数をもって成立する。
第14条 有権者が学長を不信任とするときは過半数を必要とする。

岡本学長の発案

岡本は「公選制によって、将来、職員出身の学長が選出されるようにしたい」とも語っていた。

1971年度のできごと

成田闘争激化。沖縄返還協定抗議行動が活発化し、爆弾事件が発生。ドル・ショックにより株価が大暴落、経済は低成長時代へ。銀座にマクドナルドの1号店誕生、「カップヌードル」発売開始。年明けにグアム島で元日本兵の横井庄一さんが発見される。札幌オリンピック開催。72年2月、連合赤軍によるあさま山荘事件が発生。

岡本清一学長

岡本清一は理事を公選制にする必要性について、次のように説いていた。
「教職員と関係ないところで理事会が構成されると、結局、経営と教学が対立関係になり学園運営は円滑にいかなくなる。両者が無責任な関係になると、理事会は財政第一主義となり、大学は財政を無視した教学第一主義になるのである。大学が教育環境の整備を要求しながら財政の重要な柱である学費値上げに反対したりするのである。したがって、理事会を構成していく過程に、教職員の意思が反映されるものにしなければならない」
(杉本修一『友愛賦』より)

橋本重郎

九州大学教授、東北大学教授を経て、開学と同時に本学教員に。畜産学の権威として知られていたが、本学では一般教育の生物学を担当した。著書に『聖書に見る動物の世界』など。1988年没。

講演するドナルド・キーン氏

ドナルド・キーン
アメリカ出身の日本文学研究者、文芸評論家。日本文学と日本文化研究の第一人者。2012年3月、帰化申請が受理され日本人となる。著書に『日本文学の歴史』18巻、『明治天皇』等多数。

京都精華短期大学との法人分離を宣言

京都精華女子高等学校教職員の宣言文

我々京都精華女子高等学校教職員一同は、創立以来七十年に及ぶ今日まで、一貫した教育理念に基づき女子教育に専念して来た。その間、有為の卒業生を多数送り出し、社会に貢献すること大であったと確信する。
しかるに昭和四十三年京都精華短期大学が創設され、以来京都精華女子高等学校においては、健全なる経営がなされてきたにも拘らず、学校法人京都精華学園においては、急速に財政的な悪化をたどり、今や崩壊寸前の事態を招いている。(中略)
一方、学校法人京都精華学園理事会に提案されてきた学園再建案なるものは、全く京都精華女子高等学校教職員一同が考える学園再建案とは、根底から相反するものであり、むしろ京都精華女子高等学校を破滅に導くものである。(中略)
ここにおいて我々京都精華女子高等学校教職員一同は、京都精華女子高等学校の教育を守るため、京都精華短期大学との訣別を宣言する。

宮本正清

宮本正清はロマン・ロラン研究を専門とするフランス文学者だった。『ロマン・ロラン全集』全43巻の約半数を翻訳。特に『魅せられたる魂』は名訳と言われる。1971年には京都に財団法人ロマン・ロラン研究所を設立、理事長となった。82年没。

1972年度のできごと

沖縄返還。アメリカでウォーターゲート事件発覚。「日本列島改造論」を掲げた田中角栄が内閣総理大臣に就任、9月に訪中し、日中国交回復。ミュンヘンオリンピック選手村で、パレスチナ武装組織がイスラエル人選手らを殺害。73年1月、パリ和平協定調印。変動為替制導入で経済に打撃。コインロッカーに乳幼児が遺棄される事件が続出。

新館(現・明窓館)は、鉄筋コンクリート造2階建、延べ床面積1423㎡。

1973年度のできごと

日本赤軍などによる日航機ハイジャック事件発生。金大中が日本で拉致される。オイルショックにより深刻な石油・紙不足、物価高に。江崎玲於奈がノーベル物理学賞受賞。山口百恵がデビュー。「はだしのゲン」連載開始。74年2月、「サザエさん」の朝日新聞連載が終了。フィリピン・ルパング島で元日本兵の小野田寛郎さんを発見。

マンガクラス

このマンガクラスが1979年の四年制開設の際に「マンガ専門分野」となり、2000年にはマンガ学科、2006年にはマンガ学部に発展していった。「精華のマンガ」の出発点といえる。