History大学の歴史

1966-1968

世界でたったひとつの、
理想の大学をめざして

権力や体制に対するプロテストの時代だった1960年代。世界中で若者や労働者が反戦や民主化、人種間の平等を訴えて声を上げ、大学や学問のあり方を問う学生運動が大きなうねりとなった。そんな時代に呼応して、ひとつの大学構想が京都で動き出す。1968年、京都精華短期大学開学。初代学長に選ばれた岡本清一は、「人間尊重」の教育と「自由自治」の精神を掲げ、「われわれの大学は新しい画布のように、一切の因襲的な過去から断絶している」と宣言した。京都・木野の地に誕生した何もないキャンパスから、理想に燃える少数の者たちによって、どこにもない新しい大学の創造が始まった──。

京都精華短期大学建設現場の風景

1966年度(昭和41年度)

  • 1966年 5月

    • ・京都精華女子高等学校(現・京都精華学園高等学校)を運営する学校法人精華学園(現・学校法人京都精華学園)理事会(髙屋定由理事長)が、短期大学設立の方針を決定した。
      京都精華女子高等学校は1905年、京都府皇典講究分所理事の賀茂別雷神社宮司と吉田神社宮司によって、精華女学校として創立された神道をルーツとする学校。当時、京都の高校は大学、短期大学の付属高校が多かったが、京都精華女子高等学校は系列の大学、短期大学を持っていなかった。高校の将来を考えた理事会が、短期大学の設置計画を検討。教職員の賛同も得られ、開設が決まった。
      同時に設置場所を京都市左京区の京福電気鉄道(現・叡山電鉄)沿線に求めることも決められた。
  • 7月

    • ・学校法人精華学園理事会が、1968年4月開学をめどとして短期大学設立の準備に入ることを決定。同学園常務理事・京都精華女子高等学校副校長の髙屋定國が中心になって準備が進められた。
  • 10月

    • ・学校法人精華学園理事会は、短期大学に英語科、美術科の2学科を置くことを決定。京都は美術と関係の深い伝統産業・工芸が活発で、かつ国際都市でもある。美術科と英語科の構成が京都という都市にふさわしいという、髙屋定國理事の発案だった。
    • ・短期大学設置準備事務局が発足。髙屋定國を事務局長に、京都精華女子高等学校で教員を務めていた熱田昭吾と、当時、同志社大学法学部非常勤講師だった辻野功を事務局員に選出する。
  • 12月

    • ・学校法人精華学園理事会は、短期大学設置場所を現在の京都精華大学のある京都市左京区岩倉木野町137番地に決め、土地買収交渉に入る。京都市街から外れた谷あいの休耕地で、周囲も里山と田畑しかない場所だったが、比叡の秀峰をのぞみ、京都の新しいシンボルとなった国立京都国際会館にも近いこの地は、新たな教育の場にふさわしいと選ばれた。また、京福電鉄鞍馬線沿線にあって、吉田河原町にある京都精華女子高等学校から遠くないことも決め手になった。
  • 1967年 1月

    • ・学校法人精華学園理事会は、同志社大学元教授で『自由の問題』などの著書で知られる政治学者・岡本清一を学長予定者に内定。岡本は当時、京都市長選に革新系候補として出馬し、落選したばかりだった。
      髙屋定國事務局長と辻野功が岡本の同志社大学時代の教え子だったことから、岡本に学長就任を要請し、交渉することになった。
      また、同時に京都学芸大学(現・京都教育大学)元教授で、洋画家の伊谷賢蔵にも、美術科主任教授を要請。
  • 3月

    • ・短期大学用地として、かねてより買収交渉を行っていた京都市左京区岩倉木野町137番地を取得。現在の本学キャンパスのある場所で、当初の取得面積は1万721㎡だった。
    • ・岡本清一が短期大学学長就任条件として「京都精華短期大学における教育の基本方針に関する覚書」を学校法人精華学園理事会に提出した。7つの項目からなるこの覚書は、政治学者として一貫してリベラリズムとデモクラシーを追求し、リベラルな校風で知られた同志社大学にさえ不自由さを感じていた岡本が、自らの信念に基づいた理想の教育を記したもの。岡本はこの覚書について、のちに、学長就任要請を断るためとても受け入れられないだろうと思われる条件を提示したと語ったというが、徹底した民主主義的な教育の方針が謳われていた。「京都精華短期大学は、人間を尊重し、人間を大切にすることを、その教育の基本理念とする」という人間尊重主義に始まり、「教員の学生に対する無限の愛情責任」「職員の教室外教育の責任」そして「学生の自由自治」が謳われた「京都精華短期大学における教育の基本方針に関する覚書」は、今も本学の建学理念として教育や運営、組織の根幹をなしている。
    • ・この「京都精華短期大学における教育の基本方針に関する覚書」は、同理事会で了承され、岡本清一が京都精華短期大学学長予定者に決定した。

1967年度(昭和42年度)

  • 1967年 4月

    • ・学校法人精華学園理事会は、京都精華女子高等学校内に京都精華短期大学設立準備委員会を設置。委員長に岡本清一、委員には学校法人精華学園理事の髙屋定國、設置準備事務局の熱田昭吾、辻野功に加え、大神祥江、湯浅和子、さらに岡本の推挙で、元京都府学生自治会連合委員長だった田所伴樹が委員に就任した。その後も、岡本の教育方針に賛同する多くの教員・職員スタッフが委員会に集まって開学準備が進められた。
    • ・美術科主任教授の伊谷賢蔵に続いて、柳島彦作が英語英文科の主任教授に内定。同志社中、高、大学でコスモポリタン主義に基づく英語教育に取り組み、多くの国際人を育てたことで知られ、岡本の同志社中学校時代の恩師でもあった。
  • 5月

    • ・京都市左京区岩倉木野町137番地の短期大学校舎建設地で地鎮祭を挙行、建設工事が始まる。
    • ・教学プログラムは、準備委員の辻野功に、美術科の斎藤博、デザイン科のヨシトミヤスオ、英語英文科の宇田佳正の4人を中心に進められた。
  • 9月

    • ・学校法人精華学園理事会は、京都精華短期大学設置申請書を文部省に提出する。男女共学の短期大学として申請を行った。
    • ・申請に際して、「英語科」を「英語英文科」に改めた。これは、設置に係る相談をしていた上野直蔵・同志社大学元学長のアドバイスによるものだった。
  • 11月

    • ・文部省による現地審査が実施される。
  • 12月

    • ・受験生向けの初年度大学案内を発刊する。学長予定者である岡本清一がその中で受験生に向けて熱いメッセージをおくった。このメッセージは、「われわれの大学は新しい画布のように、一切の因襲的な過去から断絶している」「教師も学生もすべて、まず人間として尊重され、自由と自治の精神の波うつ新しい大学を、これから創造していこうとしているのである」と高らかに宣言し、「この新しい大学創造の仕事を分担しようとする学生諸君!諸君の参加をわれわれは待っている」と、学生を通過していく存在ではなく、共に大学を創造する対等の仲間として捉える画期的なものだった。
  • 1968年 2月

    • ・京都精華短期大学の設置が認可され、1968年4月の開学が正式に決定された。
  • 3月

    • 本館、1号館、2号館が竣工。本館、1号館は鉄筋コンクリート造2階建て、2号館は同3階建て、特別な建築的意匠のない、無骨で簡素な建物であった。これによって、初年度の本学は、本館、1号館、2号館、食堂、静思寮(学生寮)の5つの施設でスタートすることになった。

1968年度(昭和43年度)

  • 1968年 4月

    • ・学校法人精華学園から学校法人京都精華学園に法人名称変更。
    • ・学校法人京都精華学園が京都精華短期大学を開設。自由自治の教育、国際主義の教育、人間形成のための教育を開学の理念とし、2年間で四年制大学に匹敵する力を養うため、徹底した凝集教育を行うことが謳われた。
    • ・開学時に設置されたのは、英語英文科(入学定員100名)と美術科(入学定員50名)の2学科。
      英語英文科は英米文学、セクレタリー(秘書)、貿易英語、ガイドの4コースに分かれ、実用的な英語力を身につけることが主眼に置かれた。外国人観光客に日本の文化を正しく紹介する力を養成するガイドコースなどは、当時、他大学にはほとんどなく、注目を集めた。
      美術科は絵画コースとデザインコースで構成された。美術の専門的な技量を磨くことはもちろん、文化を正しく理解し、継承・発展させ、美術教育によって人間的成長を図ることも目的とした。初年時の学生数は英語英文科102名、美術科104名。
    • ・英語英文科主任教授には、柳島彦作、美術科主任教授には、伊谷賢蔵、一般教育主任教授には、国際政治学者の前芝確三、事務局長に熱田昭吾。学内組織は理事会、教授会、事務局職員会議で構成されることになった。
    • ・教職員による岡本清一の学長信任投票が実施される。岡本は開学前から学長予定者となっていたが、開学に際し、「自分は理事会が選任した学長であり、教職員から選ばれた学長ではないので、皆さんで学長を選挙し直して欲しい」と自ら信任投票の実施を提案した。文部省への設置認可申請で、学長予定者として「岡本清一」の名前を届け出ていため、学内には選挙実施に反対の意見もあったが、岡本は頑として聞き入れず、選挙を強行した。全ての教職員が平等で大学に責任を負うという理念を改めて明確にしておきたいという意思のあらわれだったと推測される。
      投票の結果、岡本清一が信任され、正式に学長に就任した。任期は3年とされた。
    • ・4月10日に、第1回入学式が開かれた。新入生は206名、会場は国立京都国際会館。華美な演出は一切ない、シンプルな式だったが、岡本清一学長の挨拶は非常に情熱的だった。4月4日に起きたマルティン・ルーサー・キング牧師の暗殺に対して強く抗議したあと、「自由自治」がなぜ実現されねばならないのかを切々と訴え、「私たちの大学は徹底して民主的であらねばならないと思っております。皆さん方と一緒に極めて程度の高い民主主義の大学をつくらなければならない。そうでなかったらむしろつくらない方がマシであります」と宣言した。また、岡本学長の挨拶のあとには、立命館大学の末川博総長からの祝辞も読み上げられた。
    • ・初年度、学生には「学生生活の栞」が配られたが、冒頭には、「自由自治」の4文字が掲げられ、岡本学長による以下のような解説が綴られた。
      〈「自由自治」は、近代精神の精髄を言いあらわした言葉である。自由自治の精神は庶民の精神である。庶民が求め、庶民の力によって形成された精神である。われわれの大学は庶民の大学であろうとする。この庶民の心をあらわすために、高名者の揮毫に俟たずして、敢えて上のように新聞活字をもってすることにした。この活字は一九一八年(大・七)ごろ、東京朝日新聞が用いていたものである。いつか、みんなの協力によって、この四文字が石に刻まれて校庭に立てられる日が来るであろう。〉
    • ・第1回京都精華短期大学教職員会議(合同会議)が開催される。当時は「教員と職員の合同の会」と呼ばれたこの会議は、全ての教職員(用務員も含む)が一堂に会し、大学の政策について対等に意見交換する会議。岡本清一学長は開学当初から、教員と職員の身分差をなくし、大学を構成する全員が等しく責任を持って大学の運営に関わるという、大学の新しいあり方を目指した組織、制度を次々と提案してきたが、この合同会議もそのひとつだった。岡本は教職員合同会議を「志の高い大学を創造していくためには、必須の制度」と位置づけ、その重要性を語ってきた。また、教職員合同会議は教職員の倫理によって維持されるべきだという考えから、規程化はされなかった。教職員合同会議はさまざまな意味で、本学の理念の根幹とも言える存在であり、現在も定期的に行われている。
    • アセンブリーアワー始まる。アセンブリーアワーとは「集会の時間」の意味で、学内外の一線で活躍する方々を講師に迎え、芸術・文化・思想的な諸問題を考えるために毎月2回木曜日に講演会を催すというもの。アセンブリーアワー開催時は全学授業を休講とした。第1回は「人間的差別の問題」と題して岡本清一が講演した。アセンブリーアワーは途絶えることなく現在も開催されている。

      京都国際会館で開かれた第1回入学式

  • 9月

    • ・中学校教諭二級免許状(英語・美術)取得課程を文部省に申請。
  • 10月

    • ・学生自治会が発足。自由自治の精神に基づき、学生の自治による学生生活全般の向上、学内の親和を図る目的をもって組織された。初代会長に入江完(美術科絵画コース1年生)が就任。
    • ・第1回学園祭開催。在学生約200名と教職員30数名のほとんどが参加した。市内に繰り出した仮装パレードにも、教職員が参加し、全学一体となって京都精華短期大学の存在と自由で独創的な校風を社会にアピールするものとなった。岡本清一学長はこの様子を「信愛の爆発」と表現した。

      河原町通りで仮装パレードを行った第1回学園祭

    • ・英文による研究紀要『The Kyoto Seika English Papers』を発刊。
    • ・美術科収容定員変更届が受理され、50名から100名に増員された。
  • 1969年 2月

    • ・中学校教諭二級免許状(英語・美術)取得課程の設置が認可される。

1966年度のできごと

“丙午"のこの年、出生数は前年の25%減まで落ち込むも日本の総人口は1億人を突破。経済は前年からの「いざなぎ景気」で活況を呈す。国立京都国際会館開館。新国際空港建設地が千葉県成田市三里塚に決定となり、三里塚闘争が始まる。ザ・ビートルズが初来日し、日本武道館で公演。東海発電所が原子力発電を開始。中国では「文化大革命」が始まった。

60年代の京都精華女子高等学校

髙屋定由は宗像神社宮司など、神職を務めながら、東山中学校教諭、京都国学院教授などの教職を歴任。1949年、京都精華女子高校の主事になり、51年、同校校長に就任。そのあと、精華学園の理事長(学園長)に選ばれた。

髙屋定國

髙屋定國は同志社大学法学部で岡本清一に師事し、政治学を学んだあと、精華学園の経営と教育に参加。精華学園常務理事、精華女子高校の副校長、学校長を歴任。短大開設、岡本学長の選任はじめ、本学の礎をつくった。理事長を務めていた髙屋定由は父親。

岡本清一の著書「自由の問題」(岩波新書)

岡本清一は戦後、同志社大学法学部教授として政治学を講義。岡本のデモクラシーについての講義は学部を超えて多くの学生が聴講し、また岡本の平和や文明に関する研究と戦後日本の進路についての提言は、多数の人々に影響を与えた。法学部長、学生部長等を歴任した後、同志社大学を退職。その後1966年の京都市長選挙に、無所属・社会党推薦の候補として出馬。自由民主党推薦の井上清一に敗れた。

岡本に学長就任を要請

当初、髙屋らは名和統一・大阪市立大学教授に学長就任を要請したが、名和氏から「岡本清一先生が学長として適任ではないか」と強く推挙され、岡本に学長就任を要請することとなった。また油彩を趣味としていた名和氏は、自らが師事する伊谷を髙屋らに紹介した。

伊谷賢蔵

伊谷賢蔵は京都を代表する洋画家。戦後、美術団体「行動美術協会」を立ち上げ、晩年まで活動。伊谷の生み出す独特な赤褐色は「伊谷レッド」と呼ばれた。開学してしばらくして病に倒れ、学生と接した時間は短かったが、作家としてはもちろん、人間としても魅力に溢れ、学生に多大な影響を与えた。第一回卒業式には病をおして出席。マイクの前に立ち「壁にぶつかったとき、これを克服しようとする姿勢こそ重要」と語った。1970年没。

1967年度のできごと

噴出する公害問題に対し、公害対策基本法が公布。成田新空港建設反対運動、佐藤首相に対する全学連抗議デモが活発化。7月、欧州共同体(EC)発足、11月、日米首脳会談で小笠原諸島返還に合意。ラジオ「オールナイトニッポン」放送開始。68年1月、米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港を前に阻止闘争が起きる。『巨人の星』放送開始。

柳島彦作

柳島彦作は本学開学後、まもなく全盲となったが、全身全霊で授業に取り組み、学生に毎回、感動を与え続けた。1971年没。

上野直蔵

英文学者。1960年に、同志社大学学長、75年から83年まで同志社大学第15代総長・理事長を務めた。さまざまな面から本学の教育に協力してくれた恩人で、71年に京都精華短期大学が財政危機に陥った際にも、日本私学振興財団の担当常務理事に就任していた上野氏が、財団からの融資実現に尽力してくれた。84年没。

建設中の本館、1号館、2号館

本館は鉄筋コンクリート鉄骨造2階建、延べ床面積959㎡。1号館は鉄筋コンクリート造2階建、延べ床面積522㎡。2号館は鉄筋コンクリート造3階建、延べ床面積1968㎡。

1968年度のできごと

東大、日大闘争が始まる。ベトナム反戦運動や五月革命にも刺激を受け、全共闘運動が広がる。「プラハの春」がソ連に軍事制圧。国民総生産がアメリカに次いで2位となるが、水俣病、イタイイタイ病など公害問題が深刻に。川端康成がノーベル文学賞を受賞。東京都府中市で3億円強奪事件発生。69年1月、東大安田講堂が機動隊の突入で陥落。

開学の理念

自由自治の教育、国際主義の教育、人間形成のための教育という3つの理念は、岡本清一学長が提唱したもので、現在に至るまで一貫して本学の教育理念として受け継がれている。

前芝確三

前芝確三はジャーナリスト出身の国際政治学者。もとは毎日新聞社で外信部長、論説委員を務めていたが、1949年から立命館大教授。本学の開学と同時に、英語英文科の教員となった。著書に『国際政治入門』『ソヴェトの政治』等。69年没。

反対の意見

この学長信任選挙については、岡本の弟子で最大の理解者だった杉本修一(元理事長)でさえ、〈もし、岡本先生でない者が選任されたとき、果たして選挙結果を学園理事会は受け入れただろうか。また、教職員から選挙されていないので辞めたのだという理由を文部省が承認したでしょうか。〉と疑問を投げかけている。(杉本修一『友愛賦』より)

初年度「学生生活の栞」の冒頭に「自由自治」 の4文字

校庭に立てられる

2005年4月、岡本清一の生誕100周年を記念して、この「学生生活の栞」の言葉どおり、新聞活字での「自由自治」の四文字が刻まれた石碑が、悠々館横に建立された。同窓会「木野会」の提案、寄付によるものだった。

規程化はされなかった

岡本は教職員合同会議について、以下のように語ったという。
「教職員合同会議は大衆集会的性格のもので、法的制度化をしてはいけない。したがって法的には出席の義務はないが、道徳的には強く出席が要請される。教職員合同会議は決定機関ではない。決定機関でないからこそ、教員・職員の身分を超えて自由な意見が出され、また経営(理事会)と教学(教授会)の枠を超えて知恵が出されるのである。決定機関でないからこそ執行部はここでの意見を尊重することが要請されるのである」(杉本修一『友愛賦』より)

アセンブリーアワーには作家の寺山修司など著名人も

キャンパスから仮装パレードに出発

英文による研究紀要『The Kyoto Seika English Papers』