世界を知り、行動する人を育てる教育を

京都精華大学学長ウスビ・サコOussouby SACKO

現場に強く行動力がある学生たち

社会が抱えるさまざまな課題に明るく、積極的に現場に出かけて、理論よりも実践で問題を解決していく行動力がある。これが、17年前にわたしが京都精華大学に赴任した当時、学生たちに対してもっていた印象です。

わたしは京都大学に在籍していた頃、留学生仲間や他大学の学生たちと一緒に国際交流のボランティア組織を作り、京都の各地でイベントや交流会を開いていました。たとえば、鴨川の河原を会場にした「ワールドフェスティバル」では、屋台で各国の料理を出し、ステージで民族音楽やダンスの公演を行い、日本文化を体験できるコーナーも作りました。1万人規模のイベントを数百人の学生スタッフが運営するのですが、多くの班でリーダー的存在になっていたのは、他大学の学生ではなく精華の学生でした。自然とそうなっていたのでしょう。

「ワールドフェスティバル」の様子。「人種や宗教など違いを認識した上での共存が大切」と語る。

教員になってからも、学外のさまざまな催しや勉強会に出かけて行くと、必ずといっていいほど精華の学生に出会う。「先生と話すのは初めてですが、実は精華の学生です」と声をかけられ、驚いたことも少なくない。それぐらい行動力があるということです。

わたしが在籍した京大工学部の学生と、精華の学生との交流バーベキュー大会も印象に残っています。都市や貧困問題の話題になった時、議論をリードするのは精華の学生でした。自分の意見や問題意識を積極的に述べ、海外で見てきたことや体験してきたことについて堂々と話す。机上や本のなかの知識だけではなく、現場でフィールドワークをしているから、「今」の課題を知っている。観察力や問題をすくい上げる力に優れ、それを解決するために何をすべきかという具体的な話ができる。その上で、自分が必要と感じれば本や資料もしっかり読み込む。授業の単位を取り、安定した就職をすることが目的になっているような他大学のシステムとは異なる、社会に積極的に関わっていく学び方がそこにあると感じました。

卒業後も一般企業に就職するのではなく、NPOで働いたり、社会活動グループを立ち上げたりする学生も多かった。学生だけでなく、教職員も含めて、ある種の社会的責任を自覚し、一人ひとりが社会を動かす「軸」になっていた。それが京都精華大学の特徴であり、ここで学ぶ意義だったとわたしは考えています。

リベラルで新しい価値観を提示する

しかし今、市場原理主義が世界を席巻する状況のなかで、京都精華大学のよさが薄れているように思えます。学生や保護者の価値観も変わり、「社会や企業に選ばれる人間にならなければいけない」と思い込んでしまっている。市場原理の基準で選ばれる人間になるというのは、「高い値札が付く」ということです。「自分はいくらになれる人間なのか」と考え、企業から選ばれなかった、つまり思うように就職できなかった場合には、自分は価値がない人間だと自信をなくしてしまう。「個人」が見えなくなっているんですね。

大学というのは本来、リベラルな考え方に基づいて自由に研究や議論をし、企業や社会に先んじて、異なる価値観や新しいシステムを提示していく存在でなければなりません。それが今は、企業が求める従順な人間を作ることが目的になってしまっている。国の教育行政も、そうした教育内容になるようにさまざまな制度や規則を設け、これに対応していくうちに、精華もいろいろ縛りが増えてきた。そんなふうに感じています。

京都精華大学も、他の大学と同じように企業で選ばれる人間を作る、就職に強い大学を目指すべきなのか。そうではないとわたしは思います。

否応なくグローバル化が進む世界において、日本の狭い価値観のなかだけで、他大学に勝った・負けたと競争していても仕方がない。20年から30年、あるいは50年単位で世界の変化や社会の課題を見通し、それを解決するために取り組み、成果を社会に還元してゆく。そんな学生を育てるためにいくつか構想していることがあります。

一つは、NPO活動やソーシャルデザインなどをサポートする仕組みを作ること。団体の設立方法や活動資金の集め方といったノウハウを教え、学生の社会的な活動を大学が支援し、フォローする。それを通じて、社会に貢献することができます。

もう一つ、これはすでに動き始めていますが、留学生を意識的・計画的に増やしていくことです。それも、ただ数が増えればいいのではなく、京都精華大学が求める人材像を明確に打ち出し、そこに共感する留学生に選ばれるようにしないといけない。多様な国や民族の人たちに出会い、異なる価値観や多文化に接するなかで、日本で生まれ育った学生たちは自分自身のアイデンティティや身に付けてきた文化を見つめ直すことになるでしょう。その経験を通じて、真にグローバルな視点や問題意識が磨かれていきます。教職員も同じです。これはわたしの頭のなかだけにある数字ですが、現在は全学生数の数%にすぎない留学生を40%にまで増やすのがわたしの理想です。

精華の未来を切り開く3本柱

学長就任にあたり、わたしは3本の柱を打ち出しました。

一つは「リベラルアーツ」。高い教養を身に付け、人間とは何か、どんな社会が望ましいかを考える力のことです。自分の頭で考えることを怠ると、わたしたちは知らず知らずのうちに今ある社会システムに自分を当てはめ、いわば「イエスマン」になり、新しい生き方を模索できなくなってしまう。そうならないために教養や哲学が重要なのです。

人文学に限らず、芸術においてもそうです。テクニックだけを身に付けたとしても、作品のコンセプトやテーマ、それによって社会に何を伝え、変えようとしているかという哲学や思想が込められていなければ、作品は力をもち得ません。現場対応主義のテクニックだけで言えば、到底プロにはかないませんし、大学で芸術を専攻した者が全員プロになるわけでもありません。芸術を通して、歴史を知り、自分の頭で考えること。リベラルアーツを基盤とした芸術教育が必要です。

次に、「表現」。先の話とも関わりますが、ヒューマニティー=人間の本質からかけ離れ、表現だけが独り歩きするような作品が増えている気がします。芸術作品は作ること自体が目的ではなく、作者の思想や物語を伝えるための手段なのです。そのことを学生にしっかり理解してもらわないといけない。人文学部でいえば、卒業論文は史料価値をもち、後世の人たちに参照されるようなものでないといけません。

高い目標を与えすぎだ、学生がかわいそうだと思うでしょうか。決してそんなことはありません。大人が考える以上に学生たちは強く、困難な課題に取り組む力をもっています。むしろ、考え方を変えねばならないのは、わたしたち教職員の方かもしれません。

そして、3本目の柱が「グローバル」です。これは先ほども触れましたが、大きくいえば、京都精華大学の日本における社会的使命を、世界的使命に変えていくことです。単に世界の情勢に流されるのがグローバル化ではありません。世界的な視野をもって、今後の課題を見つけ、その課題解決のために考え、行動し、表現や発信を行っていく。この大学がもっているコンテンツは、グローバルに通用する可能性を秘めています。

世界に目を向けるには、自分自身を見つめ直すこと、身近な社会や日本を知ることが前提になります。自分とは何か、日本の文化や価値観、現在の課題は何かをしっかり理解していないと、自信をもって発言や行動ができません。そうすると、他者に対して不寛容になり、排他的になる。現実から逃避し、狭い世界のなかで褒め合ったり、自分たちの文化を過剰に誇ったりするようになる。メディアを通じて見られる現在の日本の傾向は、自信喪失と現実逃避から生まれているようにわたしには見えます。

社会の現実を知り、現場から行動して、世界を変えていくこと。京都精華大学の使命、そして未来はそこにあるとわたしは考えています。