History大学の歴史

1984-1992

既成のアカデミズムを超える
新たな挑戦

1980年代半ば、精華はさらなる発展へ向けて将来構想を打ち出す。最大の課題となったのが、短大の英語英文科を四年制学部へ発展させることだった。英語英文科の廃止には反対の声も強く、学内を二分する議論となったが、将来の大学の存続のために、四年制化は必須だとして、既存のアカデミズムを超える新しい学部の構想が進められていった。そして89年、人文学部が「行動する人文学」を掲げて誕生する。教員の錚々たる顔ぶれ、長期の海外フィールドワークをはじめとする 先進的なカリキュラムは内外の注目を集め、京都精華大学の評価を押し上げる原動力となった。

1984年度(昭和59年度)

  • 1984年 5月

    • ・中国のマンガ家4名と中国美術家協会の対外連絡部幹部1名が本学を訪問。1980年に続いて2回目。今回は、当時、日本漫画家協会の会長を務めていた手塚治虫氏も同行して来学。
    • ・隣接の土地、2万9881㎡を購入。現在、情報館や黎明館、天ヶ池などがある土地。
  • 9月

    • ・本館前の法面整備と緑化工事を実施。木野村の里山を復元し、散策用の歩道も整備された。

1985年度(昭和60年度)

  • 1985年 4月

    • ・第1次将来構想委員会が発足し、中・長期計画が検討され、以下の方針が決定された。
      ①美術学部に版画、陶芸、アーバンリビングデザインの3専門分野を設置する。
      ②美術学部収容定員を120名から240名に増員する。
      ③美術学部大学院を設置する。
      ④短期大学部英語英文科を四年制学部に改組転換を図る。
      ⑤国際交流をさらに充実させる。
      ⑥教職員を適切に増員させる。
      ⑦大学名称の変更について検討する。この方針によって、四年制総合大学構想に向けて踏み出すことが本格的に決定され、理事会はこれを「第二の開学になるほどの大事業」と位置づけた。
  • 7月

    • ・京都府網野町(現・京丹後市丹後町)に、厚生施設・丹後学舎を開設。教育後援会の寄贈によるもの。丹後半島の北端、経ヶ岬の近く「丹後松島」と呼ばれる景勝の地に建ち、風光明媚な日本海に面している。そのまま砂浜に出られる素晴らしい立地にあり、のちに多くの学生に利用される施設に。また、これで、本学は山の学舎である朽木学舎と海の学舎である丹後学舎という、ふたつの学外厚生施設を有することになった。
  • 10月

    • ・新5号館横に新設の禽舎が完成。写生用に15羽の鳥を飼育し、スケッチやデッサンに活用された。日本画家の上村淳之氏の厚意により、氏の禽舎からフクロウ、ホロホロチョウなどを譲り受けた。当時は狸もいた。

1986年度(昭和61年度)

  • 1986年 4月

    • ・将来構想委員会が打ち出した方針に基づいて、施設整備総合計画を発表。計画は第1期、第2期に分けられた。
      第1期計画は、研究室棟(現・流渓館)、実習室棟(現・風光館)、仮グラウンド、朽木学舎の改築など。第2期計画は図書館・AV関係施設(現・情報館)、講義演習棟(現・黎明館)、体育館、グラウンド、厚生棟(現・悠々館)、クラブ・自治会関係施設(現・遠友館)。
    • ・大学名称検討委員会を発足させ、大学名変更の検討を始める。短期大学英語英文学科の四年制への改組、施設総合整備計画を進めていくうえで、京都精華女子高等学校との法人分離が必須条件となっており、法人分離した場合、従来の名称が使えなくなる可能性が高かったため、変更の検討を開始する必要があった。また、「精華」という言葉は、「教育勅語」にも使われており、本学の教育理念にそぐわないことも理由としてあがっていた。
    • ・笠原芳光学長が再選される。
    • ・美術学部デザイン学科デザイン専門分野の名称を「ビジュアルデザイン」専門分野に変更。
  • 5月

    • ・福井勇理事長が辞任。
  • 6月

    • ・勢原哲夫が理事長に就任。勢原は法人の母体である京都精華女子高等学校で校長を務めていた。
    • ・美術学部の収容定員変更届を文部省に提出。
  • 12月

    • ・美術学部の収容定員変更届が受理される。造形学科とデザイン学科が、それぞれ60名から120名に増員になった。うち臨時定員増各20名。
  • 1987 2月

    • 春秋館が竣工。大講義室2室、中講義室3室、小講義室6室からなる本学で初めての本格的な講義棟。「春秋に富む若者が学ぶところ」という意味を込めて、「春秋館」と名づけられた。ロビーには佐藤忠良氏作の女性像が展示された。
    • ・春秋館の建設にあわせて、周辺の隣接地、6380㎡を購入。
    • ・人文学部設置委員会が発足し、本格的に人文学部設置に向けた検討が始まる。だが、反対意見も多く、学内では短大維持派と四年制推進派が対立し、激しい議論が交わされた。

1987年度(昭和62年度)

  • 1987年 4月

    • ・美術学部に3専門分野開設。デザイン学科にアーバンリビングデザイン専門分野、造形学科に版画、陶芸専門分野を新設。これらの新分野はいずれも、これまでにない画期的で本格的なカリキュラムや設備を備えるものとなった。
      アーバンリビング分野は、これまでの工学部的な建築教育とは一線を画し、「都市から建築、インテリアまでをデザインする」をコンセプトに、建築家が直接、「人が住まう」ための建築デザイン教育を行う。版画分野はニューメディア時代に対応して、木版、銅版、石版、孔版など、従来の版画技法だけでなく、写真、映像、デジタルまでを扱い、真に新しい美術を創造することを目指す。陶芸分野は、共通選択の陶芸科目をベースに設置された分野で、国内随一とも言える設備をそろえ、本格的かつ伝統的な陶芸だけでなく、アートとしての陶芸の可能性を探っていく。
    • ・美術学部デザイン学科2専門分野の名称を変更。ビジュアルデザイン専門分野をビジュアル・コミュニケーションデザイン専門分野に、染織専門分野をテキスタイルデザイン専門分野に変更した。
    • ・美術学部に社会人入学制度を導入。
    • ・朝夕館(用務員室)が竣工。
  • 5月

    • ・大学構内に窯跡「中の谷窯跡群」が発掘される。奇しくも、この年より新設された陶芸コースの窯設置予定地より発掘された。
  • 7月

    • ・京都精華大学人文学部設置認可申請書を文部省に提出(人文学科の1学科、入学定員180名)。「学際主義」「国際主義」「体験主義」を教育理念として掲げ、伝統主義的な人文学から転換し、現代社会の問題と環境問題を視野に入れ、国際化・情報化の進む来たるべき世界に向けて、新たな知のあり方を探究する人文学を目指そうという学部。「行動する人文学」を目指し、フィールドワークの方法を取り入れたユニークな構想に基づいていた。
  • 1988年 3月

    • 風光館ならびに流渓館が竣工。風光館は旧グラウンド跡地に建てられた4つの棟がつらなった大規模な美術学部の実習棟で、専門分野に合わせた多様な実習室、写真スタジオやCGラボ、AVラボ、陶芸用の大型の炉など、最新鋭の設備がそろえられた。流渓館は本館裏の山沿いに細長く建てられた研究室棟。人文学部開設にあわせて個人用研究室が約50室、本学で最も大規模な会議室や演習室も設けられた。
      ふたつの建物は、いずれも、新設されたアーバンリビングデザイン専門分野教員の上田篤の設計。それまでの本学の建物は、機能性だけを考えた建物が多かったが、上田は設計にあたって、土地の記憶や物語性を重視。風光館は京町家をイメージ。流渓館はかつて、この地にあった小川を再現し、その川に沿うように建てられた。風光館と流渓館は本学にとって「建築作品でもある校舎」の最初のケースとなった。
    • ・施設整備総合計画に基づいて、隣接する京都女子大学所有の土地、8万2519㎡を購入、校地面積は約18万㎡に。
    • ・1989年の人文学部開設にあわせ、大学名称変更の検討を本格化。全教職員および学生へのアンケートや、委員会を中心に各組織で検討を重ねたが、結果として大多数の賛成を得られる名称案がなく、名称問題は一時中断された。

1988年度(昭和63年度)

  • 1988年 5月

    • ・短期大学部英語英文科が、アメリカ・オハイオ州のアンティオーク大学と、教育研究交流を目的に提携。学生の海外フィールドワークが相互に実現することになった。
  • 6月

    • ・タイ・チェンマイ大学と一般協定ならびに学生交換協定を締結。
  • 11月

    • ・詩人のアレン・ギンズバーグ氏が英語英文科主催講演会で「私にとって東洋とは何か」と題して講演。ギンズバーグ氏は当時、アメリカで大きなムーブメントとなっていたビート派の代表的な存在。ビート派の詩や文学を日本に紹介したのは、本学英語英文科教員の片桐ユズルと矢ケ崎庄司で、今回の講演も片桐が招聘した。
    • ・同窓会「木野会」発足。第1回同窓会総会(設立総会)を開催した。会費は1万円、終身会員制で、卒業生を対象に会員相互の親睦と大学の発展に寄与することを目的とする。初代会長に赤坂博(1968年度生)。年に1度の総会、会報の発行、卒業生名簿の作成協力、大学の各種記念事業・行事への共催・協力といった活動を現在まで続けている。
  • 12月

    • ・京都精華大学人文学部設置が認可される。
      人文学部設置に伴い、短期大学で委嘱していた非常勤講師の契約は更新できないことになった。ほとんどの講師は了承したが、2名がそれを不服として、「不当解雇撤回」「差別的な非常勤講師制度の改革」を大学に要求した。その後、2名はそれぞれ外部の組合に加盟、労働争議となり、結局、解決まで2年以上を要した。その間、組合による入試会場での抗議ビラ配布、新聞報道などもあった。

1989年度(昭和64年度)

  • 1989年 4月

    • ・笠原芳光学長が三選される。
    • ・京都精華大学人文学部開設。人文学科の1学科で入学定員180名、入学者数362名。学部長に矢ケ崎庄司(人文学部教員)が就任した。
    • ・「行動する人文学」をスローガンに、「学際主義」「国際主義」「体験主義」を教育理念として掲げる人文学部には、斬新で充実したさまざまなカリキュラムが用意された。「日本の伝統文化コース」と「異文化の理解コース」のふたつのコース、徹底した語学の重視、人間と文化を総合的に捉える方法論を学ぶ「地域研究科目」に加え、なかでも特徴的だったのが、3年次後期に、日本各地、アメリカ、オーストラリア、タイで体験的に学ぶフィールドワークという手法を採用したこと。長期間のフィールドワークは、単に現地・現場での体験や問題の発見に意味があるだけではなく、教室での細切れの授業では実現できない、学生の主体的な問題探究をより徹底しようというねらいがあり、日本の大学教育では画期的な試みだった。
    • ・教育免許状授与の所要資格を得るための大学の正規課程(美術学部「美術」中学一種・高校二種)および聴講生の課程の再認定を受ける。
    • ・人文学部に指定校推薦入試制度を導入。近畿圏の41校と協定を結んだ。
  • 5月

    • ・美術学部版画専門分野の実習室に1500年の歴史を持つ和紙の技法を学ぶための「紙工房」が完成。桂離宮の襖紙を作った福井県今立町の和紙職人・岩野平三郎氏と山口良喜氏を迎えて、施設のお披露目を行う。
    • ・本学創立以来、洋画教員として教鞭を執り、理事長も務めた故・福井勇の作品5点について遺族より寄贈を受ける。
  • 6月

    • ・美術・デザイン学科を設けているイギリスの大学や高等専門学校の代表団が来学して、本学の美術教育や施設・設備を視察。
  • 9月

    • ・人文学部開設を記念して、新入生を対象に洋上セミナーを実施。関西汽船の客船「さんふらわあ」号をチャーターして、3泊4日の行程で瀬戸内海から対馬、種子島を巡るツアー。第1期生のモチベーションと絆を生み出す文字どおり「船出」のイベントであると同時に、人文学部3年次後期に設定されている「フィールドワーク」の予行の意味もあった。
      洋上セミナーには330人の学生・教職員が参加。オープニングパーティーでは笠原芳光学長の挨拶のあと、舞踏集団・白虎社のパフォーマンス、詩人・佐々木幹郎氏による講演会も行われた。翌日からは朝の時間に模擬ゼミが開講。学内教職員の学術的レクチャーだけでなく、ゲストも加わって、囲碁、レイづくりのワークショップなど、多彩なメニューを楽しんだ。2日目には学生・教職員の討論会を開催。船内のホールでは、学園祭さながらの音楽イベントも実施。ゲームやディスコで盛り上がった。
      対馬と種子島では、多様なコースを設定して、「行動する人文学」のアプローチを体験した。対馬では、旧跡見学や地元の方々との懇談、交流を通じて大陸文化の中継点となった地の歴史と文化を調査。種子島では、宇宙センターと鉄砲館というふたつの視点から歴史と未来を見たあと、地元青年団の協力を得て海岸でバーベキュー大会も開かれた。卒業までの「人文学部」で経験する内容を凝縮したセミナーとなった。

      洋上セミナーに参加した人文学部1期生と教職員

    • 学外実習制度が10周年を迎える。美術学部開設時につくった、京都の伝統産業・工芸の現場でものづくりを実際に体験するという制度。大学のカリキュラムとしては珍しいものだったが、この年に10周年を迎え、実習学生の総数が1100名を超えた。
    • ・叡山電鉄「京都精華大前」駅仮駅舎が設置される。以前は叡山電鉄の最寄り駅は木野駅だったが、地元から本学学生の通学による交通混雑に対し緩和の要望が出されたことから、大学に隣接した新駅の設置と木野駅から本学に通じる山道の整備を本学の負担で行うことを決定。叡山電鉄に交渉した結果、認められた。
      駅舎の完成は1990年1月だが、4カ月前に仮駅舎を前倒しでオープンし、電車が停まるように。京阪電車の三条駅から出町柳駅までの延長と当駅の設置によってアクセスが格段に向上し、大阪・淀屋橋から本学まで1時間程度での通学・通勤が可能となった。
  • 1990年 1月

    • ・叡山電鉄「京都精華大前」駅完成。前年9月に仮オープンしていた駅舎が完成し、新駅が本格的に運用されるようになった。この新駅からの跨線橋は、16世紀のイタリアの建築家パラディオが残したローマの橋の設計図をヒントに、アーバンリビングデザイン専門分野教員の上田篤が設計。この「京都精華大前」駅舎は京都市都市景観賞にも選ばれた。
  • 1990年 2月

    • ・人文学部学生による英字新聞『SEIKA TIMES』発行。

1990年度(平成2年度)

  • 1990年 4月

    • ・事務局に課長制を導入。精華では全ての教職員が平等であるという思想のもと、事務局でも事務局長以外の職階制度を廃止していたが、学生数の増加などを受けて、効率的に業務を遂行する必要が出てきたため、導入された。
    • ・美術・人文両学部で博物館学芸員資格課程を開設。
  • 6月

    • ・国際交流施設となる「修学院荘」開設。修学院離宮のとなり、音羽川のせせらぎが聞こえる絶好の環境のもと、数寄屋造りの居宅のまわりに、約1000坪に及ぶ回遊式庭園が広がるこの建物は京都市が所有していたが、本学が管理・運営することになった。
  • 7月

    • 収容定員変更届を文部省に提出。美術学部の入学定員を240名から300名、人文学部を180名から300名に変更した。
    • ・京都精華大学大学院美術研究科修士課程設置の申請書を文部省に提出。
    • ・アメリカ・ミシガン大学美術学部が本学でサマープログラムを開講。7月10日から3週間、ミシガン大学から15名の学生が参加し、木版画と伝統紙すきの理論と実習カリキュラムを受講した。本学の学生も参加し、大学でのカリキュラムに加えて、伝統美術工芸の現場見学、日本の自然と歴史に触れるために、越前の今立町(和紙工芸)と宮崎村(陶芸)、信楽(陶芸)や奈良(美術建築)への研修旅行も行った。
  • 9月

    • ・理事・部長・課長研修会が実施される。
  • 10月

    • ・中断している名称変更問題を進めるため、第2次名称検討委員会を設置。この段階では、翌年の大学院開学に合わせて変更したいとの目標を定めた。委員会は3案を学長に答申し、最終的には学長に一任した。しかし、学生自治会との調整が難航し、学生との対話が十分になされないまま1991年1月の学生大会で「名称変更反対」が議決された。
      その後の協議の結果、学生代表を正式構成員にした名称変更に関する新組織を発足させることで合意し、名称決定はまた先送りとなった。
  • 11月

    • ・京都精華大学大学院美術研究科修士課程の設置認可申請書を文部省に提出。四年制に続き、本学の念願だった大学院開学に踏み出す。
  • 12月

    • ・ 収容定員変更が認可される。臨時的定員増で、人文学部人文学科は入学定員が180名から300名に、美術学部2学科はそれぞれ120名から150名に変更された。
  • 1991年 1月

    • ・京都精華大学主催、第1回京都国際マンガ展が京都大丸ミュージアムで開催される。31カ国、116名、世界第一級の作家が出展したこのマンガ展には、1万8000名が来場。他の売り場から苦情が寄せられるほどの盛況となった。
  • 3月

    • ・京都精華大学大学院美術研究科修士課程設置が認可される。
    • ・教諭免許状取得課程が追加認定される。人文学部に、英語中学一種・高校一種、美術研究科に、美術中学専修・高校専修。

1991年度(平成3年度)

  • 1991年 4月

    • ・京都精華大学大学院美術研究科を開設。私立大学の美術研究科は関西圏では最初の開設となる。造形専攻とデザイン専攻の2専攻、入学定員はそれぞれ10名の計20名で、初年度の入学者数は15名。設置の目的は「美術・デザインに関する幅広い知識と高度な技術を習得することにより、将来、美術家・デザイナー・美術教育指導者などの領域において指導的な役割を果たすことのできる優れた専門家を養成すること」であった。研究科長は斎藤博美術学部長が兼任。
    • ・美術学部アーバンリビングデザイン専門分野を建築専門分野に名称変更した。
    • ・兵庫県ハチ高原にて、人文学部1年生を対象に歓迎キャンプを実施。新入生同士、在学生、教職員との交流の場となり、これからの大学生活へのビジョンを培うきっかけとすることを目的に、開催された。自治会、学友会の学生の協力のもと、グループ別ミーティングやパネルディスカッション、スポーツ広場や夜のお祭り広場、ディベートコンテストなど、さまざまなイベント・プログラムが実施された。このキャンプは1995年まで毎年実施された。
    • ・人文学部フィールドワークに先立ち、提携先のアメリカ・アンティオーク大学から演劇および日本語を専攻する12名の学生が来学。風光館前で仮面劇を上演した。12名の学生は指導教員のトランペター教授と共に8月末まで滞在し、本学学生も加わって「パペット国際旅団」として日本全国で公演。東京では法政大学学館と山谷、愛知県の足助町、広島、金沢などでも公演。松本演劇祭や飯田人形演劇祭にも参加した。
  • 5月

    • ・京都を代表する洋画家でシュールレアリズム作家・今井憲一氏の遺作約1000点が寄贈される。
  • 6月

    • ・短期大学部英語英文科在学生が全員卒業したことに伴い、京都精華大学短期大学部が廃止される。
    • 第2次将来構想委員会が発足。18歳人口の急減期が始まるなか、大学が直面する厳しい現実をどう乗り越えるか、具体的な方策の検討を開始する。
  • 7月

    • ・大学の名称変更問題について、自治会が再度、学生大会を開催。「従来の経過を白紙に戻した上で、新しい委員会を組織し、そこに学生代表が参加する」ことが承認された。
    • ・市原寮・幡枝寮・静思寮の3学生寮を売却することを決定する。施設整備総合計画第2期工事の自己資金調達のために「断腸の思い」の決断だった。寮生には学長が各寮に出向き事情を説明。正副寮長と大学側の話し合いを重ね、大学による引越し費用の負担、委託寮制度検討などの具体案を示し理解を求めた。
  • 9月

    • ・人文学部「海外フィールドワーク」が始まる。3年生を対象にアメリカ、オーストラリア、タイの3カ国で実施された。海外授業は、語学演習に加えて、それぞれの「文化」「社会」「地域の研究」をカバーする「特別講義」が設定された。
      アメリカでは、アンティオーク大学で寮生活を送りながら、学習と個人研究を進め、イエロースプリングスの町の人たちとのふれあいや、カリフォルニア等へのフィールドトリップも行った。オースラリアでは、メルンボルン大学で1日5時間、みっちり授業を受け、アボリジニー共同体やオーストラリア国会などを訪問。タイではチェンマイ大学での授業に加えて、農村ホームステイ、小学校の図書館づくりに参加した学生もいた。

      オーストラリアのフィールドワーク

  • 10月

    • ・大学の名称変更を検討する「第3次名称検討委員会」が正式に発足。学生10人と教職員10人で構成される組織で、笠原芳光学長からの諮問事項は「わが大学の名称を変えるべきか変えざるべきか、また変えるとすればどのような名称がよいか」という根本的なものだった。10月から92年6月末までに合計15回の会合を重ね、92年6月に学長に答申した。
    • ・アメリカの詩人・ゲーリー・スナイダー氏が人文学部公開講演会で「エコロジーと精神革命について」と題して講演を行う。
    • 伊谷記念朽木学舎の改築が完成。朽木村の廃校となった中学校の学舎をなんとか残したいと考えてきたが、老朽化が激しく、木造学舎を解体し、建て直さざるを得なくなった。切妻屋根の良さを残しながら近代的な鉄筋コンクリート造りの建物に。30畳の大広間のほか、10畳や8畳の部屋が4室、大食堂兼会議室、浴場、グラウンドなどを完備した。
  • 1992年 2月

    • ・韓国・弘益(ホンイク)大学と隔年で交互に開催する「日韓学生版画交流展」の第2回展を開催。学内展と同時併催し、弘益大学から版画科主任の李教授と教員、学生7名が来学。大学と学生主催のふたつの歓迎パーティーを開催した。
  • 3月

    • ・笠原芳光学長が任期満了に伴い退任。

1992年度(平成4年度)

  • 1992年 4月

    • 柴谷篤弘(人文学部教員)が学長に就任。任期は1995年3月まで。柴谷は1989年の人文学部創立時から生物学・自然科学史担当教員として教鞭を執った人物。
    • ・美術学部3年次編入定員認可の申請書を文部省に提出。
    • 施設整備総合計画・第2期工事が着工。まず、グラウンドの造成工事が始まった。完成は1995年3月の予定で、まず、仮グラウンドを1993年3月までに完成させる計画を立てた。
    • ・5号館の隣接土地4961㎡を購入。
  • 5月

    • ・勢原哲夫理事長が退任。
    • ・本学との協定校で、人文学部のアメリカ・フィールドワークの海外授業先であるアンティオーク大学からアラン・ガスキン学長ら4人が来学。一行は、滞在中、本学国際交流施設の修学院荘に宿泊し、学外実習先などを視察。また、ガスキン学長はアセンブリーアワーで講演も行い、多数の学生が参加した。
  • 6月

    • ・笠原芳光(人文学部教員)が理事長に就任。笠原は1969年から本学教員、1983年から1992年まで学長を務めた。
    • ・学生と教職員で大学の名称変更を検討する「第3次名称検討委員会」が、15回に及ぶ会合を通じて、「洛北大学」という新大学名称案を学長に答申した。結論に至る過程で、委員会は全教職員・学生の意見・要望を委員会に集約するために報告会や説明会を開き、また積極的に新名称案を募集。「洛北大学」は委員会に寄せられた31の候補案の中から検討を経て選択された。
      しかし、この案に対して学内では反対運動が起こった。ただし、高校との法人分離問題の影響から、名称変更は避けられないという事情もあったため、柴谷篤弘学長は反対意見の表明には対案の同時提出を勧告した。
  • 8月

    • ・短期大学美術科、英語英文科、大学美術学部、合同の同窓会が初めて開催される。会合名は「第1回京都精華大学同窓会」、都ホテル「瑞穂の間」で行われた。
    • ・学生と教職員によるグループリーダーズ・キャンプが朽木学舎で開催される。柴谷篤弘学長、理事を含む教職員、学生自治会、学友会の学生リーダー45人が参加。
  • 9月

    • オーストラリア国立大学美術学部と学術交流提携を締結。
  • 10月

    • ・自己点検評価活動など、大学に対する行政のチェックや大学の自発的な見直しの動きが強まるなか、「われわれの教育をわれわれ自身の手で点検・評価する」という目的で、活性化委員会が発足した。
  • 11月

    • ・京都精華大学大学院人文学研究科修士課程を文部省に申請。日本文化史、比較文化、京都研究、環境、女性学のテーマを研究する設定とした。
    • ・構内出入口の警備棟である一星館が竣工。
  • 12月

    • ・美術・人文学部および事務局の有志、学生から「洛北大学」という新名称への反対が表明されたが、代案の名称は統一されなかった。学生からは「京都創芸大学」、両学部の教職員有志からは「京都芸術文科大学」が提案されたが、いずれも決定には至らなかった。学長がこの時に提案した「京都表現大学」も全学的な支持は得られず、決定は先送りされた。
    • ・美術学部3年次編入定員が認可される。造形学科10名、デザイン学科20名。
  • 1993年 3月

    • 光彩館が竣工。美術学部の実習施設の整備が進むなかで、立ち遅れていた美術学部デザイン学科テキスタイルデザイン専門分野の実習棟。テキスタイルデザイン専門分野はこれまではプレハブ校舎の使用をしいられてきたが、ようやく本格的な実習施設を持つことになった。鉄筋コンクリート造3階建て、織、染のためのさまざまな設備をそろえた建物。また、建物の新築に伴って、これまで裏側に流れていた小川を実習施設の前面に流し、谷水の流れが実習室や広場からいつも間近で眺められるようになった。

1984年度のできごと

「かい人21面相」によるグリコ・森永脅迫事件が起きる。衛星放送の試験放送開始。ロサンゼルスオリンピック開催、ソビエト連邦など不参加。新紙幣が発行され、一万円札に福沢諭吉、千円札に夏目漱石。東京国立近代美術館フィルムセンターが火災。81年の『フォーカス』に続き、写真週刊誌『フライデー』創刊、スクープ合戦を繰り広げる。

1985年度のできごと

つくば科学万博開催。民営化によりNTT、JT発足。ソ連でゴルバチョフがペレストロイカに着手。日本航空機が御巣鷹山に墜落、520人死亡。中曽根首相が戦後首相として初の靖国神社公式参拝。プラザ合意により主要国がドル安の政策協調。成田空港反対派が三里塚交差点付近で機動隊と大規模衝突。任天堂が「スーパーマリオブラザーズ」発売。

1986年度のできごと

4月にタレントの岡田有希子が飛び降り自殺、少年少女の自殺が相次いだ。男女雇用機会均等法施行。チェルノブイリ原子力発電所で大規模な爆発事故が発生。社会党委員長に土井たか子選出、日本で初の女性党首が誕生した。伊豆大島三原山が大噴火し、全島民約1万人に避難命令。87年1月に国内で初めてエイズ患者が認定される。

1987年度のできごと

国鉄が分割民営化され、JRグループ7社が発足。朝日新聞阪神支局が襲撃され、記者2人死傷。世界の人口が50億人突破。利根川進・マサチューセッツ工科大学教授にノーベル生理学・医学賞。ニューヨーク株式市場で株価が大暴落し世界同時株安に(ブラックマンデー)。金賢姫による大韓航空機爆発事件発生。88年3月、青函トンネル開通。東京ドーム落成。

1988年度のできごと

瀬戸大橋が開通。フロン等を規制するオゾン層保護法制定。戦後最大の贈収賄事件とされるリクルート事件発覚、贈賄側のリクルート社関係者と収賄側の政治家や官僚らが逮捕された。ソウルオリンピック開催。ビルマで8888民主化運動。9月に昭和天皇が倒れ、日本各地が自粛ムードに。1月7日、天皇崩御、皇太子が即位し、新元号が「平成」となる。

1989年度のできごと

消費税導入、税率3%。中国の天安門で民主化デモが弾圧され多数の死傷者。ドイツ分断の象徴「ベルリンの壁」崩壊、マルタ会談で米ソが東西冷戦の終結宣言。埼玉、東京で幼女連続誘拐殺人事件発生。ダライ・ラマ14世にノーベル平和賞。年末に東証平均株価が史上最高値を記録。HIV訴訟、日本初のセクハラ訴訟。小中高等学校での日の丸掲揚・君が代斉唱を義務化。

1990年度のできごと

イラク軍のクウェート侵攻により湾岸戦争勃発、91年1月、多国籍軍が空爆開始。この間、日本では国際貢献のための自衛隊海外派遣論が叫ばれ始める。バブル景気崩壊。10月、東証株価が2万円を割り前年の史上最高値から約50%減。東ドイツが西ドイツに編入されるかたちでドイツ統一。秋山豊寛が日本人初の宇宙飛行。

1991年度のできごと

NTTが小型携帯電話を発売。ペルシャ湾岸の機雷除去のため自衛隊を初の海外派遣、PKO協力法案可決。信楽高原鉄道で衝突事故。雲仙・普賢岳で大火砕流発生。米ソが戦略兵器削減条約に調印。韓国と北朝鮮が国連同時加盟。韓国の元従軍慰安婦が日本政府に補償提訴。ソ連が消滅、旧ソ連11共和国はCISを創立。アウンサンスーチーにノーベル平和賞。

1992年度のできごと

青森県六ヶ所村で国内初の民間ウラン濃縮工場が操業開始。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争勃発。リオデジャネイロで地球サミット開催。中国と韓国が国交樹立。金丸信自民党副総裁が東京佐川急便から5億円授受で議員辞職。自衛隊をカンボジアに初のPKO派遣。天皇が初の中国訪問。93年3月、北朝鮮が核不拡散条約(NPT)からの脱退を表明。

来学時、学生と交流する手塚治虫氏

手塚治虫 『鉄腕アトム』『ブラックジャック』『火の鳥』など、ヒット作、名作を次々と生み出した日本を代表するマンガ家。ヨシトミヤスオ(美術学部教員)が第1回日本漫画家協会賞大賞を受賞したことをきっかけに本学を訪れ、マンガを描いているところを学生に披露したこともある。

法人分離が必須条件

1971年の財政危機の際、高校側より法人分離を突きつけられたものの、すぐには無理という判断で、単一の法人のまま大学と高校が独立採算で運営するという状態が続いていた。しかし、高校側は大学がこれ以上、負債を増大させる政策を実施することに強く反対しており、巨額の借り入れが生じる大学の四年制化や施設整備を実現するには法人分離が必須となっていた。

春秋館

春秋館は鉄筋コンクリート造2階建、延床面積2200㎡。7号館の南の斜面に建られた、黄灰色のタイル貼りで、瀟洒なつくりの建物。

ビジュアル・コミュニケーションデザインとしたのは、メディアの多様化によって、デザイン領域がこれから、単なる意匠でなく「コミュニケーション」を中心としたものに変わっていくと考えたため。テキスタイルデザインに変更した目的は、今まで取り組んできたアートとしての染織をさらに充実させ、伝統工芸からデザイン性に富む範囲まで取り入れ、より幅広い創作活動を行い、広い視野からも対応できるようにするため。

中の谷窯跡群

風光館建設地から奈良時代の須恵器窯2基と平安中期の灰釉窯1基が出土。岩倉一帯が大規模な窯業地であったことをうかがわせる。

風光館は町家をイメージした4棟構造

風光館は鉄筋コンクリート造地下1階付3階建。延べ床面積7789㎡。渓流館は鉄筋コンクリート造地下1階付2階建、延べ床面積2612㎡。

アンティオーク大学

アンティオーク大学は、1852年、アメリカ・オハイオ州イエロースプリングズに創立。自由な校風で知られ、学生を研究と実務に交互に従事させて、両者の有機的結合を目指す、「アンティオーク・プラン」の創業校としても有名。

チェンマイ大学

チェンマイ大学は、1964年、国立の地方大学として創設。国内屈指の高等教育機関として高い評価を受けている。17の学部と3研究所を持つ総合大学。

アーウィン・アレン・ギンズバーグ

1926年生まれ。アメリカの詩人。ジャック・ケルアックとともにビート文学の代表者のひとり。朗読の名人だったという。 代表作は『吠える』。1997年没。

労働争議

この非常勤講師問題について、本学執行部は『木野通信』第14号でこう説明していた。
〈(前略)この制度の主旨はカリキュラムの充実と教育研究活動の活性化のために大学間で教員の交流を計ることであり、契約内容も「一年間(以内)の嘱託」に類するものです。
即ちこの契約は非常勤講師が本務校など他に主たる生計の途を求めることを前提にしており、大学は生活保障の義務を負っていないのです。この点が専任者の場合とは全く違い、仮に契約が反復更新されても大学に「雇用」継続責任がないことは多くの判例が示しています。
従って、これは「解雇」ではなく「契約期間終了」である、というのが本学の主張です。
またこの制度は国公私立を問わず広く全国の大学で行われており、(中略)制度そのものを「差別的」だ、という考えは本末転倒です。二つの組合との交渉はこれ迄一年半の間に十四回と十回にわたり誠実に行いました。今後も円満な解決を願って努力します。

「学際主義」「国際主義」「体験主義」

「学際主義」は専門化によって狭隘化しがちな学問の姿勢を見直し、人間の文化を総合的に探究する姿勢。「国際主義」は世界の異なる民族、文化を尊重、理解し、日本文化を国際的な視野から再評価できる真の国際人を育成する方針。「体験主義」は書物だけでは理解できない、文化の背景や環境の実態を知るために、体験学習を積極的に取り入れる考え方。

フィールドワークという手法を採用した

本学と提携関係にある大学や研究機関を拠点として、約4カ月の授業と調査を行う。その間、語学の習得はもとより、現地の人々との交流・協力を通じて、生きた生活文化の体験的理解を深め、自他の文化を考える手がかりとする。

学外実習制度

1980年に実施された最初の学外実習は、75人が19カ所で行ったが、1988年度は130人が42カ所と、参加者も実習先も倍増した。

SEIKA TIMES

『SEIKA TIMES』創刊のきっかけは、人文学部創設1年目に1年生対象に作られた英字新聞を読むグループ。自分たちも実際に英字新聞を作ってみようと始められた。

収容定員変更届

収容定員増は、文部省が18歳人口の増加に対応して打ち出した臨時的定員増の制度を使って、申請された。造形学科150名のうち30名、デザイン学科150名のうち50名、人文学部300名のうち120名を臨時的定員とした。

ミシガン大学

ミシガン大学は1817年に設立された州立総合大学で、20超の学部、600の学問分野を有する。入学難易度も高く、フォード元大統領、劇作家アーサー・ミラー等著名人が多く卒業していることでも知られる。

歓迎キャンプ

人文学部、入学生歓迎キャンプの参加者は、新入生336名、在学生78名、教職員27名の総勢441名。

今井憲一

洋画家。戦前から超現実主義的作風を示し、風景と静物を組み合わせて独自の画風を示してきた。1988年没。本学は伊谷氏を通じて、教育や美術教育などについて教示を受けた。

第2次将来構想委員会

第1次将来構想委員会は1985年発足、短期大学英語英文科の改組や美術学部の定員増、大学院の設置、国際交流の活発化などの中・長期方針を決定したが、大学名称の変更を除いて、構想は大筋で実現した。しかし、第2次構想員会では単純な発展ではない、新しい知恵が求められることになった。

学生大会を開催

1月に開催された学生大会で、名称変更反対が決議された。「既に新名称は決まっており、学生の意見を聞かずに変更を強行する」という誤った情報が伝わっていたため。大学側は学生側とのコミュニケーション不足を反省し、学生に対して合計9回の説明会を開催。その結果、学生大会で名称問題検討組織の設置が認められた。

ゲーリー・スナイダー

20世紀のアメリカを代表する詩人、自然保護活動家。代表作の詩集『亀の島』ではピューリッツアー賞を、『終わりなき山河』ではボーリンゲン賞を受賞。アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックなどとの交友関係は有名。

改築された朽木学舎

朽木学舎は、美術科の初代主任教員だった伊谷賢蔵の画集の収益を基金にして、滋賀県朽木村の廃校となっていた朽木中学校西分校の校舎を購入して改装。「伊谷記念朽木学舎」として1975年にオープン。合宿やクラブ活動等に活用されてきた。

柴谷篤弘

生物学者として国内の大学、企業、約20年に及ぶオーストラリアでの研究などを経て、1989年、人文学部教員に。専門の生物学をはじめ、科学批判、反差別論、革命論から料理まで、多彩な分野で膨大な著書がある。2011年没。

施設整備総合計画・第2期工事

1986年4月、施設整備総合計画を発表。計画は第1期、第2期に分けられた。第1期工事 研究室棟(現・流渓館)、実習室棟(現・風光館)、仮グラウンド、朽木学舎の改築など。第2期工事 図書館・AV関係施設(現・情報館)、講義演習棟(現・黎明館)、体育館、グラウンド、厚生棟(現・悠々館)、クラブ・自治会施設(現・遠友館)。

「洛北大学」という新大学名称案を学長に答申した

第3次名称検討委員会は、大学の新名称を考える客観的な資料にするために、学外の調査機関に依頼して、現名称や候補案に関するイメージ調査も実施していた。

オーストラリア国立大学

オーストラリア国立大学はオーストラリアで最も評価の高い大学として位置づけられており、特にオーストラリア国立大学に付属する美術校として設立された美術学部は非常に人気がある。キャンベラのほぼ中心地にあり広大なキャンパスを有している。

決定は先送り

法人分離に向けて、大学名称の変更は避けられないと考えていた学内理事会はこの状況に苦慮したが、翌年高校側から、法人分離に向けて「京都精華大学」の名称を保持することへの賛同が得られ、結局「京都精華大学」という名称で新法人設立の申請を行うこととなった。

光彩館は鉄筋コンクリート造3階建、延べ床面積2259㎡。